【前編】蛙の詩人・草野心平が愛した福島県の小さな村 小さな文学館を訪ねて

るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる

 

20に及ぶ「る」の行列。誤入力ではない。これは一つの「詩」だ。

作者は草野心平(1903年~1988年)。「蛙の詩人」とも呼ばれ、蛙をモチーフにした詩を数多く生み出している。

 

冒頭の作品は、詩集『第百階級』に収録されている「生殖 Ⅰ」という詩である(底本は『草野心平全集第1巻』1978年5月、筑摩書房)。「る」の羅列をじっと見詰めていると、蛙がたくさん並んでいる姿に見える。「生殖」から連想すると、蛙の卵の連なりにも見える。「るるる」という音の響きは蛙が歌っているようだ。

 

蛙の詩人がつくる詩は、このように一見詩に見えないものも多く、ぶっ飛んでいる。けれど、楽しい。

 

そんな心平さんゆかりの地の一つに、天山文庫(福島県双葉郡川内村)がある。ここは、村を訪れた際に心平さんが滞在した場所で、蔵書も多く格納されている。現在は、草野心平の記念館の一つとなっている。

 

美しい自然の中に佇む、茅葺き屋根が特徴的な「天山文庫」。

 

心平さんが初めて川内村へ足を運んだのは、1953年8月29日。きっかけは、1950年に、心平さんが読売新聞へ「モリアオガエルの生息地を教えてほしい」という内容を投書し、それに対して長福寺の先代住職・矢内俊晃和尚が、川内村に招く手紙を書いたことであった。

 

以来、心平さんと川内村の人々の親交はどんどん深まっていった。その後、心平さんは3000冊もの蔵書を川内村に寄贈。そのことを機に天山文庫は1966年7月、設立に至った。

 

心平さんが蔵書を贈ったことで、村民により天山文庫が設立された。

 

貴重な書籍に囲まれた、神秘的な場所。格式高い香りもする一方、巷では天山文庫のtwitterのつぶやきも話題になっている。独特のゆるさを伴う呟きや顔文字(´-`)が不定期に投下され、思わず「いいね!」を押したくなってしまう。そんな人たらしツイートの投稿主である“中の人”に、草野心平の魅力について話を伺うべく、新幹線、バスを乗り継いで天山文庫を訪問した。

 

目次

“中の人”が教えるSNS活用術

 

天山文庫の庭にある「十三夜の池」は、心平さんの命名によるもの。

 

――天山文庫の「中の人」ですね。ツイッターが話題ですよね! 素朴な顔文字も面白いですが、つぶやく際に心がけていることがあれば教えてください。

 

自分が面白いと思えるものを、と心がけていますね。あんまり堅苦しくないように。お知らせだけだとつまらないじゃないですか。「文豪とアルケミストに興味津々です」みたいな、個人的なものも小出しにするようにしていますね(´-`)

 

 

――わあ、生で(´-`)をありがとうございます! 年齢も性別も不詳で、どんな方なんだろうとずっと思っていました(笑)。ちなみに顔出しはNGですか?

 

はい、すみません(笑)。ツイッターの内容ですが、皆さんが想像している文学館の管理人さんが、ゲームについて言及したり、変なことを言ったりすると、皆さんビックリすると思って。「まじめだと思ってたのにいきなり変なこと言った!」みたいな。

 

けれど同時に、若い人だけをターゲットにしたくないんです。年齢が高い方でも楽しんでいただけるように、不快にならないよう気を付けて、言葉遣いも丁寧にしています。

 

 

――反響が大きかったツイートは何でしたか?

 

心平さんの「冬眠(※世界で最も短いと言われている詩。詳しくはコチラ)」のような、絵みたいな詩を載せたときの反響が多かったです。皆さん、ゲームから(心平さんに)入ってくる方が多く、詩を実際に見られた方は多くないんですね。心平さんの詩はぶっ飛んでるので、驚きがあったようです。

 

心平さんを訪ねて文豪たちが続々

親交のあった文豪・川端康成が、天山文庫の落成記念に贈った直筆の書。

 

――それでは、心平さんと川内村との関わりについて教えてください。心平さんと村をつないだのもカエルだったとか。

 

そうなんです。心平さんの生まれは、隣のいわき市です。ふるさとに近いけど、四十代になるまで、ここ川内村とは交流が全くなかったんです。

 

川内村にいらっしゃったときは、ふるさとの小川村がいわき市に合併して、もう村ではなかった。「小川村はもう街並みが変わってしまった」と詩にも書いていたので、昔ながらの村のふるさとっぽさみたいなのが、川内村にはまだあったんだと思いますね。

 

 

――天山文庫には約3000冊の蔵書がありますが、これらはすべて心平さんのものだそうですね。

 

はい。心平さんが名誉村民になられたときに、川内村からお礼の意味で、心平さんのご自宅がある東京・東村山へ炭を送ったんです。炭百表、百五十キロをトラックに乗せて。

 

そうすると、帰りにトラックが空きますよね。それに本を乗せて帰ってくれって心平さんが言うので、持って帰ってきたんです。炭の代わりとして、本が贈られてきたということです。

 

酒樽に見えて実はこれも書庫なんです!

 

――心平さんが川内村の名誉村民になったのは1960年です。村に来るまでは数年かかりながらも、そこから名誉村民になるまでは、かなりスムーズな印象を受けます。

 

もともと川内村っていうのは、詩や歌読みの文化が定着してた土地だったんです。でも村に詩人とか歌を詠む人がいなかったので、心平さんがいらっしゃったときは「先生がやってきてくれた!」という感動もあり、村としてはあまり帰したくなかったのではないでしょうか。だから名誉村民になってもらったのかなと。

 

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