【1300年のお寺から学ぶ】人はなぜ意味を求めるのか?ピカソの言葉と「諸行無常」から考えてみた

本堂に優しく流れ込んでくる柔らかな風、障子の隙間から差し込む温かい陽の光、遠くでザワザワと揺らめく青紅葉。 朝の本堂は、どうしてこんなにも心が落ち着くのでしょうか。   

私、梶川あんなは、修行僧ではないものの、縁あってお寺に勤めさせていただいてる、まだまだ未熟な20代です。 摂食障害だった過去や、残業やパワハラで疲弊した経験を経て、どうすれば充実した日々を過ごせるのか問うようになりました。そして自分自身ともっと向き合っていきたいと思っていた頃、1300年の歴史があるお寺に出逢い、参拝者の対応や境内の掃除などに携わらせていただく運びとなりました。 

普段のお勤めだけであっても、さまざまな気付きを与えてくれるこのお寺。自身の未熟さを痛感させられると同時に、日々一歩立ち止まる機会をくれる特別な場所です。 

目次

巨大な襖絵は何を意味している?

そのお寺で圧倒的な存在感を示すのが、本堂の端から端までをおおう横幅10メートルもの「襖絵」。金箔と墨を襖にぶつけたかのような、しかし緻密に計算し作成したかのような、斬新で威厳のある筆の跡……(撮影NGのため、残念ながらここに載せることは叶いません)。 

「この襖絵は一体、何を意味しているのですか?」 

何度、参拝者の方々からこのご質問を受けたことでしょうか。 気になる気持ちは痛いほど分かるのですが、モチーフが描かれているわけでもないこの抽象的な絵に、意味を定義するのはとにかく難しい。しっくりくるお返事が見つからぬまま、何度もなんども襖絵の意味を尋ねられるなかで、ある日ふと思いました。 

人はなぜ、こんなにも意味を求めるのでしょうか。 

私たちは、日常生活で「意味があるかないか」という二極論から「意味があるもの」を無意識に選んでいるような気がします。まるでそれが人生における正しい選択肢であるかのように。

しかし、この世に「これが正しい」という答えは存在しているのでしょうか。  私たちの人生は、個性は、そして感性は、もっと複雑であり自由でいいと思うのです。 ゆえに、襖絵の意味を定義するなんて、なんだかとっても窮屈に感じます。 

ピカソの言葉「絵は見る人の心の状態で変化する」

そんな私が参拝者の方からご質問をいただくとき最近思いだすのは、ピカソの言葉。  

絵はそれを観る人の心の状態にしたがって変化し続ける。 絵は、私たちが日々の生活によって変化するように、生き物のようにその生涯を生きる。 それを観る人の目を通してのみ生きるのだ。

素晴らしい絵は、素晴らしいと言ってくれる人がいるから評価されるわけです。斬新な絵は、柔軟な感性をもつ人がいなければ嘲りの対象です。名声を浴びた絵であっても、その絵に興味を持つかどうか、その絵をどのように捉えるかは、観る人にゆだねられています。 

そのことはピカソの大作「ゲルニカ」から読み取れます。 ゲルニカは1937年、スペイン内戦をもとに描かれました。スペイン内戦で勝利したフランコ将軍に強い反感を抱いたピカソが反戦を訴えた絵ともいわれています。フランコ将軍の死後、ニューヨークで大切に守られていたゲルニカはスペインに帰還。

今もなお平和の象徴として展示されているこの絵から溢れ出る反戦への強い訴えは、戦争を知っている世代から知らない世代まで、息を呑むような緊張感を与えます。もし私たちが平和への興味を失ってしまったら、この絵が存在する意味はなくなってしまうのでしょう。

それが「絵はそれを観る人の心の状態にしたがって変化し続ける。それを観る人の目を通してのみ生きるのだ」という言葉を通じてピカソが言いたかったことだと、私は解釈しています。ですから、ピカソの言葉を思い出すたびに、「絵の意味を問うよりも、感受性を育んでいきたい」と思うのです。 

 絵の解釈は毎日のように変わる

さて、ピカソの言葉をもっと日常レベルに落とし込んでいきましょう。 昨日はすごく元気だったのに、今日はなんだかイライラするなんてこと、ありませんか?  

私たちの心は常に変化しつづけています。そして心の変化にともなって、目の前の景色の解釈も変わってきます。これを仏教の言葉で「諸行無常」といいます。 

最初にご紹介した襖絵も、私は毎日のように見ていますが、日によって感じる印象はまったく違います。 素早く激しく走らせた筆のあとから、 ときには抑圧から解放されたときの爽快感を、 別の日には流れる川のような癒しを、 また別の日にはこちらに襲い掛かってくるような畏怖を感じるのです。 

つまり、絵は心をうつしだす鏡。私はよく絵とじっと見つめ合ったあと、「どうしてこんな気持ちになるのだろうか」と自問するようにしています。慌ただしい毎日を送っていると、つい自分の心をないがしろにしてしまって、体調を崩したり憂うつになったりします。

無気力な自分のままでいるのは苦しいので、何が心をゆさぶってくれているのか、何が心の負担になっているのか深堀りする時間を大切にしながら原点に戻ってみる。そうやって心のバランスを保っています。

たしかにどれだけ有名な画家が描いているのか、どんな意味が込められているのかなどの情報も絵に奥深さを与えてくれます。しかしそれだけで「だからすごいのか!」と終わらせることができるのであれば、なにかを感じた私たちの心はどこに行けばいいのでしょうか。   

外側に意味を求めるよりも自分の感情と見つめ合うことのほうが、その後に役立つことは多いのです。   

なぜ人は意味を求めるのか

人はそもそも、自分で考えるという脳に負担のかかることは苦手です。よく分からないものに遭遇すると不安になり、答えを与えられると安心します。 意味のあることを積み重ねて、意味のないものはやめる。そうやってレールのうえにのっていればきっと怖いものはないと無意識に信じている人もたくさんいるでしょう。

失敗のリスクを背負わなくていい。やりたいことがないという虚無感に向き合わなくていい。自分が空っぽな人になってしまうかのような不安から逃れることもできます。 

しかし、不安から身を守るために「意味あること」を積み重ねているときほど、なんだか焦りや息苦しさを感じませんか。そしてちっとも心は充たされないのです。あれをやらなきゃ、急がなきゃ、これもやらなきゃ、やりたいことができない、あれやりたいことってなんだっけ スケジュールが埋まっていても心が虚しいのは、自分の心を置き去りにしてしまっているからでしょう。 

さらに虚しさが増していくと「生きている意味ってなんですか」と呟くようになりがちです。すべきことをコツコツ積み重ねられる、生きる力がある人たちから、このような言葉が出てくるのはとても悲しい。 

ですから、「意味」を追い求めていても苦しいのであれば、一度その意味を手放してもいいのではないか、と思います。やらなければと思っていたことに限って、やめてみればうまくいくこともあります。逆にムダだと思っていたことが案外役に立つこともたくさんあります。 

私自身も、どうしてこんなに辛い思いをしなければいけないのか分からないと悩む時期を長く過ごしてきました。そのなかで失ったものや得られなかったものは多くあります。ですが、得たものも等しくありました。「あれはあれで必要な過去だった」そう思いながら生きています。

分からないものと一緒に生きていく 

言っても、「意味あるもの」を手放してしまうと何が起こるか「分からない」から不安を感じて動けなくなりますよね。しかし、分からないままでいることは行動しない理由になるのでしょうか。努力を積み重ねていても、うまくいくか分からない。心配事は現実にならないから大丈夫と言われても、本当かどうか分からない。時間をかけてプレゼントを選んだけど、喜んでもらえるか分からない。 

の世の中には、分かるものより分からないもののほうが多く存在しています。積み重ねた労力に意味があったと気付くのは、全部経験したあと。ですから、分からないときは分からないまま進めばいい。「やっておいたほうがいいよ」と言われたことをやっても、うまくいくかなんて分からないのですから。   

「やって良かった」と思う経験や「あのときこうしていれば」という後悔のなかで、徐々に自分の人生にとって大切な選択肢というのが分かるようになるのですから、結局すべてが意味あるものだったと思える瞬間がくるわけです。 

そう考えると、意味というものは、一貫して定義するのは難しい。その人の人生のなかで、数々のドラマを通じて、その時その人だけに生まれるもの。つまり「意味」とは、時間の流れのなかで姿形を変えていくものではないでしょうか。   

ういえば、本も一緒ですね。年齢を重ねるとともに、面白いと思う理由が変わった本や面白いと思えるようになった本はたくさんあります。幼い頃、母にすすめられてミヒャエルエンデの「モモ」を読みました。あの頃の私にとってはカッコいい勇敢な女の子と薄気味悪いおじさんたちのバトルファンタジー。面白いけど分厚いし、非現実的なものとイライラした大人たちがたくさん出てくるものですから、読み終わった頃にはぐったり疲れ果てていました。   

20代になってからその本を開いたときは、多忙で体調を崩していた私に1歩立ち止まるきっかけをくれる学びの多い1冊となりました。非現実的なものは想像をかきたてる楽しさを与えてくれます。イライラした大人たちには…「ああ他人事ではない」と反省しながら共感していました。   

30代になったら、もう1度モモを読んでみます。その頃の私は、どんな意味をこの本に見出すのか楽しみですね。

 おわりに 

 「この襖絵は一体、何を意味しているのですか?」の問いに、私は次のように答えています。 

「何を描いたかは明らかにされていません。ただ、絵というのは自分の心の鏡です。せっかく禅寺にいらっしゃったのですから、ご自身の心と向き合ってみるのはいかがでしょうか」   

私がそう言うと、「お寺らしい受け答えだねぇ」と笑って素通りされる方もいます。振り返り襖と見つめ合い、大きく深呼吸される方もいます。何を思ったのか、その心を覗くことはできませんが、感想ぐらいは聞いてみたい。今までの経験を通して、今ここで感じた意味は、今後さらに実りある日々を過ごしていくヒントになるでしょう。 (文 梶川あんな)

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