【1300年のお寺から学ぶ】無名の人に存在価値はあるのか

 摂食障害をきっかけに、どうして人は悩み葛藤しながら生きるのか興味をもった私が、1300年の歴史を誇るお寺に勤めて学んだことを綴るエッセイです。今回は、「人の存在価値」について綴っていきます。

夏のジリジリとした日差しが和らいできた頃、お寺が誇る1本の松の木が切られてしまいました。本堂の前に堂々と立つその松の木は、参拝者がつい足を止めるほどの存在感。しかし病気にかかってしまったため、他の松に感染しないよう切らざるを得なかったのです。どれだけ素晴らしいものであっても、いつかは終わりを迎えてしまうのです。

自然あふれる庭園、1300年の歴史をもつ建造物、そして日々変わる参拝者のお顔。このお寺には、一日として同じ日はありません。朝一番、まるで昨日の参拝者の痕跡を消すかのように、床一面の赤いじゅうたんについたほこりを取り、写経机にのこった指紋や墨汁をふき取ります。そうしているうちに、今日これから起こることと入れ替わるかのように、昨日の記憶が薄れていきます。本堂の前に松の木がないことにさえ、違和感を覚える人は、今は1人もいません。私を含む寺務員も、このお寺に名前を残すことはなく、いつかは忘れられてしまうのでしょう。

では、私たち「無名の人」は、いなくてもいい存在なのでしょうか。

目次

無名の人たちがお寺を守り続けている

このお寺が1300年も確固たる威厳とともに存在しているのは、その背景に、無名の人の無数の尽力があったからです。

今現在も、お寺が続いているのは、参拝者の方々が納めてくださる参拝料や、建造物・自然を大切に扱うお気持ちがあってこそ。ほかの参拝者の方が気分を害さないよう、境内では静かに過ごして下さること、感動を他の人に知ってもらおうと知人に紹介してくださることも、大きな貢献です。

参拝者の方々は、多額の寄付や、巨大な広告を作成しているわけでもありません。ただ周りへの配慮を忘れずに過ごしているだけ。ここでの感動を、身近な人と分かち合っているだけ。そういった1人ひとりの当たり前かつ日常的な行動によって守られているものが多くあるのです。

好きだった人になぜ幻滅してしまうのか

価値のある人はどんな人かと聞かれると、偉人たちや大企業の経営者のような、世間に影響を与えてきた人を思い浮かべるかもしれません。もしくは、その場にいるだけで周りが明るくなるような人かもしれません。

ですが、価値とは特定の人物にのみ与えられるものなのでしょうか。

もしそうであれば、好きで一緒にいるのに、少しでもヒビが生じれば「あんな人、もう知らない!」と背中を向けるのはなぜでしょうか。昨日まで好きだったタレントのスクープを知って、「幻滅した」とツイートするのはなぜでしょうか。

相手の価値を見誤っていたから、ではないはずです。

思い込みが価値を消し去る

相手に価値を感じなくなったときは、自分の期待と相手の姿にズレが生じたときです。私が勤めるお寺にも、「たいしたことないね」と言い残して去る方が稀にいます。

例えば、花々が枯れてしまっていたとき。

自然あふれる当院の庭園は、季節ごとの花がそれぞれの彩を添えてくれます。ですが、時が来たら散り、やがて枯れ果て茶色く染まっていきます。その最期は決して見栄えのするものではないですから、ガッカリする人もなかにはいます。天候によっては開花しない場合もあり、「ちゃんと手入れしなさいよ」とお叱りを受けることもあります。

ですが、花は花として咲いているだけであり、人の期待に応えるために咲くわけではありません。人はつい、「自分の憧れ」「自分の欲求」を実現してくれることを他者に求めてしまいます。そして自分自身にも、です。

「親を失望させてはいけない。だから本当は逃げたいけれど頑張り続ける。」

「優しい人でいなくてはいけない。イライラや嫉妬を感じるなんて私は最低だ。」

「何で理解してくれないのだろう。言わなくても分かるでしょう。」

知らずしらずのうちに、「こうあるべきだ」「こうすべきだ」といった枠組みで、人は自分や他者を縛ってしまいます。自分や他者を否定してしまう心に変わってしまう要因は、「こう在ることが正しい」といった思い込みではないでしょうか。

縁を切ることもときには必要

価値とは期待に応えること、必要とされることだといった意見もありますが、本当にそれだけでしょうか。私は、「価値の有無は受け取る人に委ねられているのではないか」と思うのです。

枯れている花を見て、肩を落として帰る方がいる反面、朽ちる瞬間さえ受け止めて切なさやはかなさに感動する方もいます。

時期が過ぎた花にガッカリしても、「また咲いているときに来るね」と言ってくださる方もいます。花を責めるのではなく、自分はどうすればいいかを考えるといった姿勢にも、自分の未熟さを痛感します。

きれいな写真は撮れなかった。期待とは違った。そういったことに一喜一憂するかどうかは感情なので、仕方ありません。理想とは違う部分を含めた、その存在そのものをありのままに受け止めることができるかどうかが大切なのではないでしょうか。

すなわち価値とは、その人の存在を認めてくれる人がいて、はじめて成り立つものなの。否定的な言葉ばかりを使う人に認められようと頑張るのを辞め、我慢して合わせないと保たれない関係とは縁を切ることも、ときには必要なのかもしれません。否定的な言葉ばかり掛けられると自分が無価値に感じますし、合わない人は合わないのですから。

だからといって、「私を認めてくれる誰か」を探し続けるのは違います。幸せになれるきっかけを他者に委ね続けるのは、自分の人生を他人に任せるようなもの。依存でしかありません。

価値ある人になるには

かつてブッダが残した言葉には、「つとめ励むのは不死の境地である(つとめ励む人々は、死ぬことがない)」というものがあります。

やるべきこと・やらないことを見極め、やるべきことを積み重ねて行く。そういった人は自然と周囲にも影響を与えていくので、存在が死んでしまっても誰かの記憶に留まり続け、ときには名を残すということです。

お寺では参拝者の方々が、話し声を抑え、狭い参道を他の方と譲り合いながら歩く光景をよく見掛けます。誰かが写真を撮っていれば、その前を無理に通るのではなく微笑みながら待っていてくださる。そういった心配りを見るたびに心が穏やかになります。

心配りだなんて、やって当たり前のことかもしれません。ですが「当たり前」のことほど気を抜いてしまい、行動にしていくのが難しいものではないでしょうか。私はつい最近、母が料理を作ってくれたのに、「ごちそうさま」も言わず、慌ててその日の予定へと出かけて行ってしまいました……。たかが言い忘れ、家族内ではよくあること、と思う方もいるかもしれませんが、ふとした時に後悔するのは、こういった当たり前にしていることができなかったときではないでしょうか。「やるべきことを積み重ねて行く」は、しっかり意識するからこそできるものなのです。

「あってもなくてもいいもの」こそ人生に欠かせない

数多くの人の勤めによって守られてきたこのお寺ですが、そのなかで名前が語り継がれている人はごく一部です。それでも少し立ち止まって境内を見渡せば、その静けさや美しさから、無数の人々の無数の心配りを感じます。そういった記憶にも残らないほどの「些細なこと」こそ、人生において決して欠かすことのできないものではないでしょうか。

先日、押し入れを整理していたら10年以上前に読んだ小説たちが、わんさか出てきました。どれもストーリーを思い出すことはおろか、あらすじを読んでもピンとこないものばかり。「読まない本は持っていても意味がないのだから、捨てるべき」と言われたこともありますが、読まない本・内容を覚えていない本さえも愛おしいと私は感じています。

本屋さんで、その本を見つけたときは何かときめきを感じたのでしょう。読んだときは感動し、ときに笑い、友人とシェアだってしました。記憶にさえ残らないひとときに楽しませてもらい、支えられている瞬間はたくさんあるのです。記憶に残るほどのサプライズや、世界を変えるほどの立派な行動ももちろん素敵ですが、「あってもなくてもいい」と思うものがあってこそ、私たちは生きていけるのではないでしょうか。

自分の生をまっとうすればいい

本堂の前に堂々と佇んでいた松の木が切られたことに、私もすっかり慣れてきました。立派な松の木でさえ、「あってもなくてもいいもの」だったのかもしれません。松の木が切られたことによる大きな変化といえば、本堂から参道が眺めやすくなったことです。かつては、参拝にいらっしゃる方々の様子を一目見ようとしても、どうも松の木が邪魔をしていました。ですが、今はおひとりおひとりの表情がはっきりと見えます。

立派だけど少し迷惑な松。ですが、「なければよかった」とは思えません。もし本当になくてもよかったのなら、どうして切られると決まった瞬間、胸が痛くなったのでしょうか。残った切り株を苔や花で覆い隠している様子を見て、切なくなったのでしょうか。迷惑と感じながらも、結局はその存在すべてが愛おしかったのでしょう。

だから、無名であっても、ときに欠点が目立っていても、つい悪気なく迷惑を掛けてしまう日があっても、自分の生をまっとうすれば良い。いつか忘れ去られる存在である私もあなたも、ほかの誰かにとっては価値ある人なのです。(文 梶川あんな)

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