大江健三郎が描く、知的障がい者の兄を持つきょうだいたちの「静かな生活」とは何か?

LGBTは生産性がない」ある政治家はそう自論を展開した。神奈川県の障がい者福祉施設で無差別殺人を起こした犯人は、「意思疎通のとれない障がい者は生きる価値がない」と繰り返した。

生産性で人の生きる価値が決まってしまうのだとしたら、そんな社会はとてつもなく味気なく、つまらないものに感じる。それぞれの個性や人生の味わい深さを尊重する社会であったら。大江健三郎の小説『静かな生活』を紹介しながら、考察したい。

『静かな生活』あらすじ

物語は、女子大生マーちゃんの両親の海外渡航が決定したところから始まる。不在の両親に代わり、マーちゃんや弟のオーちゃんは、知的障害を持つ兄・イーヨーを福祉作業所まで送るなど、献身的に支えていくが……。

目次

「落ちこぼれ!」とののしられた弟

作中でのこと。ある朝、福祉作業所に向かうバスに乗ると、近くの女子中学校の女生徒2人組にイーヨーがぶつかってしまう。気の強そうな方の女生徒が、イーヨーを「落ちこぼれ!」とののしった。兄の独特な身体の動きと、肩掛け鞄が大人しそうな女生徒の胸に当たったために。

そのような数々の困難を目の当たりにする度に、マーちゃんは、「なにくそ、なにくそ!」と自分に言い聞かせながら生きる。一方のイーヨーは、どのようなことがあっても、あっけらかんと生活している様子が描写されている。

「なんでもない人」とは誰か?

作曲の才能があるイーヨーは、父の友人の作曲家のもとでレッスンを受けている。イーヨーがピアノを奏でる音を聞きながら、マーちゃんは別室で、作曲家の奥さんと会話する。そこで、兄が「落ちこぼれ」と罵られたことを伝える。

レッスンが終わったあと、改めて作曲家・奥さんと3人で「落ちこぼれ」の話をした。すると奥さんは、イーヨーの余裕のある態度が立派だと言い、次のように続けた。

じつはね、マーちゃん、私自身が自分のことを「落ちこぼれ」と認めているんだわ。(中略)私の感じ方でいえばね、自分はなんでもない人として生まれて来てそのように生きているし、あといくらかそのように生きて、やがてはなんでもない人として死んでゆくということなのよ。

 奥さんは、自分を特権化せずに「なんでもない人」として生き、大抵の「なんでもない人」の味方をしたいと言う。マーちゃんは、その発言にハッとする。障害を持ちながら作曲の才能のある兄・イーヨー。自分がその妹であることに、ある種の特権を抱いていたのではないかと思ったためだ。そのことを奥さんは見抜き、非難していた。

重藤さんの奥さんが私たちを決して許さない様子でいられるのは、私たちがなんでもない人でいながら、そうじゃないふりをしてきたと見ぬかれたせい。(中略)そうではなくて、私がイーヨーの障害を特権的にとらえていて、障害を持ちながら音楽がよくわかる以上、なんでもない人ではないと誇りに感じ、その兄にどこまでもついて行く(中略)自分のことも、なんでもない人ではないと考えているのがいけない、といわれるのだ。

マーちゃんとイーヨーはなんでもない人であり、特権などない。落ちこぼれでも構わないではないか。そう認めることで、罵られようとも気にせず、平穏な気持ちでいられるのではないかと奥さんは伝えようとしていたのだ。 

生産性至上主義への疑問

私たちの暮らす社会は、ついつい効率だとか生産性を意識し過ぎて、それでは生きる上で余りにも、余裕がないように感じる。それは高度経済成長期から始まったのか、それよりもっと前からなのか、分からないけれど。そして、経済的指標のみに基づく生産性というものに疑問を持つ人の割合は、恐らく当時は少なかったと思う。そんな中でも、生産性至上主義に対する懐疑をシニカルに描く先見性に、感動を覚える。 

「静かな生活」とは、一種の皮肉なのかもしれない。マーちゃんたち家族は、あくまでも静かな生活を目指している。しかし社会は、マーちゃんとイーヨーの2人が「静かな生活」を送ることを、許してくれない。大多数の他人がイーヨーの挙動に目をやり、好奇の目を向け、ときには突っかかってくる。マーちゃんに対しても、両親の不在を気に掛けたり、哀れみをもって接する人たちがいる。

それでもマーちゃんたち家族は、静かな生活を目指す。心掛ける。一見すると重いテーマを扱いながらも、日常と地続きの、決して悲観的ではない家族の物語が、読者の心を和らげる。

終わりに

最後に、物語終盤の、印象的なセリフを紹介して終わりたい。

父を置いて日本に帰国した母は、両親の不在中にマーちゃんが書いた、「家としての日記」という日々のできごとを回想したものを読んだ。そして、「家としての日記」というのは味気ないので、この半年ほどの生活にふさわしいタイトルをつけるよう提案する。マーちゃんが「タイトルの名人」であるイーヨーに頼むと、暫く考え、次のように答えた。

「静かな生活」はどうでしょうか?それは私たちの生活のことですからね!

(文 らぶそん)

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