就活に身が入らない…その理由をサルトル『嘔吐』から読み解いてみた

就活に対してどこか憂鬱さを感じている方がいたら、紹介したいのがサルトルの小説『嘔吐』です。

 大学4年生の筆者は就活に対してどこか腑に落ちないところがあり、なかなか手がつかない状況の中でこの本に出会いました。読み進めるにつれ、主人公ロカンタンの抱く吐き気の不快が、自分の抱く就活へのモヤモヤと似通っているものなのではと考え始めたのです。

目次

『嘔吐』とは

 題名の通り、主人公ロカンタンの吐き気をめぐる物語です。彼は小石を掴んだときに初めて吐き気を覚えます。ニュートンがリンゴの落下を不思議がったように、ロカンタンはなぜ小石がここにあり、これを小石というのか疑問を持ち始めます。その問いをさらに広げ、この世のあらゆるものの存在理由や意義までを丸ごと疑い始めたのです。

この解決しそうにない問いを、「存在の不条理」や「偶然性」といった言葉をもって表現されています。不条理と偶然性は我々自身の存在にも当てはまり、ロカンタンは自分自身の存在にも意味や理由はなく、「ただここにいるだけである」と気づき、しばらく吐き気を抱えることになります。

「世界は一定の不動の法則に従っている」と信じる人々

 筆者は就活を「組織立った大きなうねり」のように感じています。

日本の大学生は新卒採用への応募が一般的ですから、大学3年生あたりから就活サイトで情報を収集し、説明会やインターンに参加します。自分の向き不向きが分からない人には、職業適性診断といったサービスまであります。志望先をある程度絞ったら、自己分析を行い、自己PRを仕上げます。

このように、就活の過程には正しい順序がはっきりと示されています。そのため、この秩序からはみ出てしまう「誤差」はどうにかして処理しなければいけません。筆者の友人は、自己PRや面接はほぼ嘘で突き通し、この誤差を処理したそうです。

 大学側も生徒側も、卒業したら就職ということが前提で動いています。就職をゴールとした一連の流れ、これに乗り遅れまいという観念が社会全体に大きなうねりのようにあるような気がしませんか。

就活、またそれに従う人々に対する筆者の眼差しと似たような考えを、主人公ロカンタンは本書の中で明らかにしています。 

彼らは一日の勤めを終えて事務所からでてくると、満足気に家々や辻公園を眺め、それが<彼ら>の街であり<立派な商業都市>であると考える。…一日に何遍となく、すべてが機械仕掛によってできており、世界は一定の不動の法則に従っている証拠を彼らはみる。…彼らは<明日>を、というのはただ単に新しい今日を考えている街々は、朝毎に全く同じ姿で戻ってくるたった一日を自由に使えるものとして持っているだけである。

ロカンタンは、社会の歯車になって働き、それを世界の全てだと思い込んでいる人に対して、「彼らはある共同幻想の只中にいるだけだ」と皮肉じみた視線を投げかけるのです。

不確かな「自分」と「自己PR」の矛盾

筆者は大学に入学するまで、「正しい」とされることを遵守してきました。遅刻せず学校に出席し、課題やテストは決して怠らない。嫌いな教科も我慢して取り組む。学校が期待している生徒像、すなわち優等生だったわけです。

しかし大学に入り、自分の将来について考え始めた時、「これまでの評価は一体何になるんだ」と気づいたのです。本当にしたいことは何だろうかと路頭に迷い、留学に行ったりして自分自身と向き合いましたが、未だに何なのかよく分かっていません。

自分の存在の不確かさはまさにロカンタンが抱えている問題であり、彼は自分が存在することを必死に自分自身に納得させようとしますが、うまくいきません。

私は実存する(中略)私の口の中に泡立つ水がある。それを呑み込む(中略)この水溜り、それもまた私だ。そして舌、そして喉、それも私だ。

彼は自分の肉体的な感覚を確かめようと試みていますが、唾液を「水」と表現している描写から、自分の体からの分泌物という枠組みを解体させようとする意識がうかがえます。さらに、

はっとして私は椅子から立上る。せめて考えることをやめられたら、それだけですでにうまくいっただろうに。思考、それは最もつまらないものだ。肉体よりもさらにもっとつまらないもの。それは途切れることなくどこまでも伸びてゆき、奇妙な味わいを残す。

ロカンタンは肉体的な感覚を確かめようと、唾液について考える彼自身の意識にも言及しています。彼は身体的感覚から意識に至るまで、自己を形作るらしいもの一つ一つに違和感を拭えていないのです。

ここまで自己を追求しようとしても結局自分自身は分からないままなのですから、就活で提出する自己PRのために書き出さなくてはならない短所や長所、特徴などをまとめた自己分析がどうしてできるというのでしょうか。

「社会は偏見で成り立っている」という割り切り

 ここまで読んでいて、ロカンタンは社会に対して無知な、とんだひねくれ者だなと思った方は少なくないと思います。彼は決して貧乏な生まれではなく、当時は珍しかったであろう留学を経験した、いわば坊っちゃんだと言えます。今働かないと明日の生活が成り立たない人々には、自分自身をぐずぐずと考えている暇もないでしょう。しかし、ロカンタンや一大学生の筆者にとっては、幸か不幸か自分探しに苦悩するという隙が与えられているのです。

筆者も早く働きたいと思っても、就活という「組織立った大きなうねり」に乗っかっていくのを躊躇してしまうのです。では、サルトル『嘔吐』が筆者や筆者のように苦悩する人に与えてくれる希望は何なのでしょうか。それは一種の諦めのようなものでしょう。

 ロカンタンは世界は一定の不動の法則に従っていると信じてやまない人々に対して、こう言っています。

 …捉えどころのない自然は、彼らの街の中にいつのまにか忍び込み、いたるところ、家や事務所や奴ら自身の内部にまで浸透した。自然は身動きせず、静まり返っているが、彼らはそのまん中にいて、自然を呼吸している。しかし奴らには自然が見えないし、それが外部に、街から八十キロも離れたところにいると想像している。私は、それを<見ている>、その自然を<見ている>、それが<見える>のだ、…。私は、従順と見えるのは怠惰なのであり、自然には法則がないことを知っている。だが奴らは、自然は変わらないものと思いこんでいる…。自然は習慣しか持たないし、この習慣を明日にも変えることができるのである。

少し抽象的なので噛み砕きます。まず、「自然」というのは、主人公ロカンタンが掴んだ小石をはじめ、草や木、自分自身にいたるまでのあらゆる存在のことを言っています。それらの存在は本来、理由や意味は持たず、ただ偶然的にそこにあるだけのものです。

後半に出てくる「習慣」というのは、私が就活に例えた「組織立った大きなうねり」と同じようなもの、すなわち就職すれば幸せになれる、という一つの観念や概念と置き換えられるでしょう。

よって、ここで彼が言っていることは、「我々人間は本来、意味も理由もないあらゆる存在に意味付けをしていて、その中で生きている」ということです。そう考えると、人間がこの世のありとあらゆるものに名前を付け、秩序を宿したように、社会の中で生きていくということは、ある一定の秩序に身を委ねることが必要かもしれないのです。就活は人間の作り出した一つの秩序であり、それに従うことで社会に参入する事ができるわけです。

ロカンタンの徹底した存在理由の否定は、「社会は偏見で満ちているものだという諦め」と示してくれ、筆者に希望を与えてくれました。

最後に

今回取り上げた就活へのぼんやりとした違和感に挙げられるように、社会の秩序や偏見に抵抗したいという思いは誰もが抱くものであり、この気持ちは自分の意思と社会の秩序が衝突した時に生み出されるものではないでしょうか。

一方で、「これだ!」という思いや「これが好き」という感覚は、自己存在を考えるまでもなく、否応無しに立ち上がっていくものだと思います。だから、筆者はこの感覚を大切にして、自分の目標の過程にたとえ就活があっても、折り合いを付けて挑戦していきます。(文 夏目やや)

 

※参考文献

J-P・サルトル『嘔吐』白井浩司訳 人文書院 2002

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