夏目漱石『三四郎』から学ぶ、生きづらい現代社会を生き抜くヒント

「生きづらい」という言葉をよく耳にする。確かに、今の世の中には、人を認めるだけでなく、否定する風潮も一定数あるように思う。しかし、私たちはそれでも生き抜かなければならない。では、どうやって生きていくか。そのヒントは、『三四郎』に詰まっていた。

『三四郎』は『それから』『門』へと続く夏目漱石の前期三部作の一つである。日本が日露戦争に勝利した頃に書かれた小説であり、物語の舞台も同じ時代に設定されている。表面的なテーマは「愛」であるが、物語の根底にあるのは、変化が激しく窮屈で生きづらい時代における「自己の探求」である。

今回は『三四郎』を読み解き、現代社会を生き抜く術を学んでいく。

『三四郎』

熊本の高校を卒業して、東京の大学に入学した小川三四郎は、見る物聞く物のすべてが目新しい世界の中で、自由気ままな都会の女性・里見美禰子に出会い、強く惹かれてゆく。青春の一時期において誰もが経験する、学問、友情、恋愛への不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から失恋に至る過程の中に描いて『それから』『門』に続く三部作の序曲をなす作品。

 

主な登場人物

  • 小川三四郎(おがわ さんしろう)主人公。熊本から東京帝国大学に入学。美禰子に惹かれる。
  • 里見美禰子(さとみ みねこ)ヒロイン。裕福な家庭で育ち、美しく教養もある。三四郎を翻弄する。
  • 野々宮宗八(ののみや そうはち)三四郎と同郷。海外でも有名な研究者。美禰子に惹かれる。
  • 佐々木与次郎(ささき よじろう)三四郎の同級生。広田の家に住み込む。
  • 広田萇(ひろた ちょう)第一高等学校の教師。与次郎の恩師。
目次

明治日本に向けた文明批判

『三四郎』が発表された1908年は、日本が日露戦争に勝利した頃である。当時、日本は「一等国」と自負し、西洋に追いつくために近代化を急いでいた。漱石は西洋文化を無批判に受け入れ、目先の近代化に走る日本社会の無頓着さを、『三四郎』を通して批判している。

明治の思想は、西洋の300年の歴史の中で行われた活動を、40年の間に繰り返している。

これは高校教師・広田の言葉である。近代化の過程で自然な発展を遂げた西洋に対し、明治日本は人為的に短期間で近代化を図ったために矛盾が生じた。封建社会が消滅しても、その要素を持ちながら個人主義に目覚めた人々の心には葛藤があった。漱石は、明治日本の近代化が時代錯誤であるという歪みを、街の風景や広田の言動によって表現している。

この矛盾は、現代も続いていると感じる。日本はソ連崩壊やバブル崩壊後に、アメリカ型の自由主義的な経営方式を取り入れたが、個人主義社会のアメリカと集団主義社会の日本では価値観が大きく異なる。最近では「生きづらい」に加えて「多様性」も頻繁に聞くようになったが、過剰に多様性を掲げる社会になったことで、個性がないとダメなように感じる時がある。

例えば、筆者は大学生なのだが、黒髪・リクルートスーツを強要されながらも「個性がない」と言われる日本の就職活動は息苦しい。

他人に左右されない「自己本位」

『三四郎』には、「自己本位」の概念が盛り込まれている。「自己本位」とは、漱石が英国留学中にうつ状態に陥った際、見出した概念であり、他人ではなく自分の意思で行動することを意味し、真の自己の追求と考えられた。

主人公・三四郎は熊本から上京するにあたって、東京に大きな期待を抱いていた。そんな期待を裏切られたのは、東京へ向かう汽車の中であった。高校教師・広田に視野の狭さを忠告されたのである。

日本より頭の中のほうが広いでしょう。とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ。

日本の近代化は外に原因があり、「自己本位」ではなかった。広田の言葉を聞いた三四郎は、熊本にいたときの自分の臆病さを自覚する。非常に少ない知識量で一面的な考えしか持たないのに、学問には自信があったことを恥じたのである。

そして、三四郎もまた「自己本位」ではなかった。彼は広田が、三四郎の名門高校の帽子や東大入学に興味を示さなかったことを疑問に思っている。これは、他人からどう見られているかを意識しているからこその反応である。つまり、三四郎は自分の意思ではなく、他人の評価に左右された生き方をしている。そのような三四郎を見かねた広田は、人は自分の意思を元に行動しなければならないと説いたのである。

今の日本でも、「自己本位」な人は少ないと感じる。SNSの発展により、私たちは常に誰かの生活を覗き、覗かれている。そして、無意識に自分と人を比較している。だからこそ、よく見られたい、嫌われたくないという理由で行動するようになる。一時的には周囲と良好な関係を築けたとしても、人生の終盤で「自分がない」と気づくような生き方は勿体無い。人の目が気になるときは、「この人生は誰の人生か」と考えるといいかもしれない。

孤独なストレイ・シープ

『三四郎』を代表する言葉に「ストレイ・シープ(迷える子)」がある。どこにも属さない人を意味するこの言葉は、美禰子と三四郎に当てはまる。

美禰子は「生意気な女」「乱暴な女」と言われるほど、男に従属せずに振る舞う自立した女性である。しかし、自信はある一方で、本気で人を好きになるには一歩踏み出せない保守的な一面も持っている。

つまり、美禰子は東洋と西洋の要素を合わせ持つ。西洋から新しい個人主義的な思想が導入され、日本の古い封建的な要素が残るという状況は、明治時代特有のものであった。美禰子は、東洋的な存在にも西洋的な存在にもなりきれないという悩みを抱いていた。

三四郎は自分の生き方を模索しながら、何にも属していない。東京で様々な考え方や生き方に触れた結果、彼は三つの世界を認識する。第一の世界は、母親のいる「故郷」。第二の世界は、広田や野々宮といった研究者が属する「学問」。第三の世界は、美禰子に代表される「美しい女性」。

第一の世界から出てきた三四郎は、第三の世界に属する人々が純粋な心を持っていることに惹かれる。しかし、若い女性が電車に轢かれて自殺するのを目撃したことで、現実世界とはかけ離れた第二の世界で生きることを考える。三四郎は、その女性を第三世界の恋愛がらみによる自殺と勝手に解釈したのである。

そして、第二の世界で生きようとするも、すべてを研究対象として見ることで感情が枯渇した人間になることを恐れ、躊躇する。結局、三四郎は自分の生きたい世界を一つに絞ることができない。

「迷える子」は、変化が激しく、さまざまな世界が混在する時代に生きる美禰子と三四郎を指す。彼らはどこにも属さない疎外感や孤独を味わう、同じ「迷える子」なのである。

現代においても、社会が決めた型にはまらない人は大勢いる。日本社会は、表向きには「多様性」を重要視しながら、ある枠組みから外れた人に対して口出しをする。しかし、一人ひとりが既に唯一無二の存在なのだから、周りからいくら邪魔をされようと、ありのままに生きていいはずである。

「無意識の偽善者」は罪か

「無意識の偽善者」は、漱石が人生を通して考え続けたテーマである。これは、無意識のうちに不道徳な行動をとり、他人に影響を与える人のことである。

『三四郎』では、美禰子が無意識のうちに他人を性的に誘惑している。三四郎から見れば、美禰子が誘惑してくるように見えるが、美禰子の目的は野々宮を挑発することであり、三四郎ではない。しかし、三四郎の気持ちを軽く扱ったことは事実であり、その行為は結果的に三四郎を苦しめることになった。

さらに、美禰子は三四郎の無邪気な反応と好意に満足している。例えば、美禰子は三四郎に金を貸している。美禰子は「借りなくてもいい」と言う三四郎に対し、素っ気ない態度をとったり、必要以上に金を貸したりするため、三四郎に惹かれているように見える。

また、美禰子が香水を買う場面では、三四郎が選んだヘリオトロープを美禰子は即座に購入する。これらの行動は、美禰子が三四郎をもてあそんでいる、あるいは無意識のうちに三四郎に惹かれている証拠である。物語の終盤、美禰子は聖書を引用して、三四郎につぶやく。

我はわが愆を知る。わが罪はわが前にあり

美禰子の場合、自分が「無意識の偽善者」であったことに気づき、彼を誘惑したことに罪悪感を感じている。だからこそ厄介なのである。彼女のように、無意識のうちに他人を惑わす行動をしている場合、周りの人はその人を責めることができるだろうか。

美禰子は最終的に自分の罪を自覚したが、全ての「無意識の偽善者」がいずれ自分の罪を自覚するとは限らない。漱石が考え続けた「無意識の偽善者」の最大の問題点は、悪意がない者を道徳的にどう捉えるかということであった。

しかし、言ってしまえば、私たちはみな「無意識の偽善者」ではないか。人は誰しも自分の存在価値を感じたい生き物である。「自分の行動で誰かが喜んでくれて嬉しい」というのは単なる思いやりではなく、「自分の与えた影響力を感じられて嬉しい」という気持ちも含まれている。それが人間である。

ただ、人の心を惑わせ、美禰子のように恋愛感情が絡む場合には自分の評価が下がる可能性があるため、注意が必要である。

生きづらい時代を生き抜く人々の物語

『三四郎』は、近代化を急ぐ明治日本に生きる人々の葛藤を描いた小説である。漱石は、三四郎の恋物語に日本社会に対する批判や「無意識の偽善者」の問題を自然に盛り込むことで、自らの主張を繰り広げている。そして、近代化の歪みの犠牲となり、自分たちの生き方に悩む美禰子と三四郎を「迷える子」として表現している。

『三四郎』は恋愛小説というには軽く、教養小説というには物足りない。また、さまざまな解釈ができるため、「結局どういうことだったのか分からない」という感想もある。しかし、私はそれこそが『三四郎』の最大の魅力であり、漱石だからこそ成せる技だと感じる。

最後に、皆さんへ! これから先、人生に疲れたときが来たら、頑張って本屋に行ってください。そして、『三四郎』を手に取ってください。「生きる」ためのヒントを得られるはずです。(文 ぱぐ)

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