『人間失格』を読んで、私が摂食障害から這い上がった話    

口癖は「普通になりたい」

 

摂食障害だったころの筆者(左が拒食症だった2015年、右が過食症だった2017年)

 

『第一の手記』は葉蔵の幼少期からはじまる。家庭環境と当時の生活をなぞりながら語られる中で、食事の場面が描かれる。葉蔵は「子どもの頃の自分にとって、もっとも苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした 」と語る。食べたくなくても「めしを食べなければ死ぬ」という事実。

 

当時、私にとって食事とは、全く幸福ではない営みであった。それなのに逃れられないという残酷さ。そこに痛く共感した。周りの人たちは皆、食事をありがたがって、娯楽として消化している。私には堪らなく苦痛な行為が、世間では幸福だとされている。その違和感を言い当てたのが、まさにこの場面なのである。

 

そして食事の場面から、「自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安」と続く。食事を楽しめないというだけで、世間から取り残されたように感じている自分の思いを代弁してくれているようだった。自分以外の人間が簡単に、生活の中に落とし込んでいることを、どうして自分はできないのかという不安。ひとりでいるとき、私の口癖は「普通になりたい」であった。

 

幸福な時間が怖かった

 

『第二の手記』は、葉蔵の中学時代から初めて自殺未遂をするまでで構成される。家族や地元といった狭い世間から、社会へ繰り出していく部分だ。『第二の手記』で印象的なのは、何人も女が出てくるこの作品のなかで、葉蔵が唯一好きだったと語る女性・ツネ子が出てくることのように思う。

 

ツネ子と葉蔵は心中未遂を起こすのだが、そのツネ子と初めて朝を迎える場面で心に引っかかる文章が出てくる。「弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです」この文章は本作品の中でも有名な一節だろう。文章そのものの美しさも印象的だが、何よりも、幸福を幸福のまま受け止められない歪みが共感とともに私の心に入ってきた。

 

摂食障害、特に過食症になって私が最も後悔していることがある。それは、今までの交友関係を絶ってしまったことだ。拒食症のとき、私は軽薄な言い方をすると怖いもの知らずだった。身体が丸みを帯びる高校時代に、華奢であり続ける私を誰もが褒めてくれたし、学業も怠らず進路実現への努力も惜しまなかったので、周りから”一目置かれている”実感があったことをここに告白する。

 

故に、過食で大きく容姿が変わった自分を表に出すことができなかった。高校時代の友人にばったり出くわすことは勿論あったが、誰も自分の容姿に言及をしなかった。それは私にとって幸福なことだが、別れた後、恐ろしく巨大な羞恥心と自己嫌悪で死にそうになっていた。つい先ほど明るく話し、笑顔で別れた友人が、胸の内でどれだけ自分を中傷しているかと思うと、耐えられなかったのだ。

 

また、新しく大学で出会った友人にも、過食症であることを言い出せなかった。お昼休みはごく僅かな食事を友人とともにし、別れた後に過食する毎日だった。過食がばれたらさぞ落胆されるだろうと思うと、お昼のつかの間の談笑さえ恐ろしくなり、次第に一人で過ごすようになった。

 

幸福な時間が怖い。共感され難いこの感覚をどうしたらよいのか。私自身も『人間失格』を読むまで、実態をもって接することのできなかった感覚だ。失う前に幸福を避ける人間が、自分以外にもいることにひどく安堵したのだった。

 

私が私で、何が悪い?

 

他の二つの手記と比べると、かなりボリュームがあるのが『第三の手記』である。自殺幇助罪の服役を免れ、実家から縁は切られ、いよいよ葉蔵は自分の足で生きていく。しかし、もとよりひとりで生きていく力のない葉蔵は結局女を頼り、酒を頼り、薬を頼り堕落していく。

 

葉蔵の心中の葛藤があまりにも悲しく、堕落と言い切ってしまうのは心苦しいが、間違いなく第三者から見れば堕落に他ならないだろう。『第三の手記』は、ついに廃人と呼ばれ自らに、「人間、失格」と烙印を押す場面へと向かっていくラストスパートだ。

 

先述した通り、『第三の手記』は長いので共感できる箇所は多くある。しかし一つ挙げるのであれば、やはり「世間というのは、君じゃないか」である。太っている人間を世間は怠惰だと判断する。「大量に食料を買うのは恥ずかしいことだ」「他人の前で大いに食べることを控えねばならない」「高校生までの頑張りが水の泡だ」など、これらは全て私が過食症のときにかけられた言葉である。

 

これらの言葉を投げられたとき、私はしょぼくれて、どうしようもない人間だと自己を貶めるしか方法がなかった。しかし「世間というのは、君じゃないか」の一文を読み、雷に打たれたような衝撃を受けた。

 

この一文は、葉蔵が悪友と認めるものの、腐れ縁を切れず関係が続いてしまう軽薄な男・堀木に人生を諭される場面で発せられる(実際には堀木を怒らせるのが嫌で心の中で叫んでいる)。個人の意見とするには恰好が悪いので、または相手を威圧し説き伏せるために「世間」という言葉が使われるのだ。

 

私に「『世間』から見ていかに太っている体形が相手を不快にし、私自身の信頼を失墜させるものであるか」を説いてきた人たちの視野の狭さ、なんとしてもマジョリティに立って私を納得させたいという頑なな意志、その全てを見通せた一文だ。相手にこの言葉をぶつけるには臆病な私だったが、自分の心を守る武器としては最適の言葉だった。私の貶められた自尊心を救ってくれる唯一のお守りになったのだ。

 

摂食障害は要因が複雑で、起爆剤がそこかしこに転がっている。「何が、明確に」とは言いづらいが、確かに「世間とはあなたのことでしょう」と呟くことは、私を回復に向かわせた。葉蔵が転落していく『第三の手記』で、皮肉なことに私は這い上がるための武器を手に入れたといえるだろう。