全てが規格外…陸上界伝説の男に迫った『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』

 

セックスすら槍投げに応用

 

古武道では柔術から居合術、棒術、手裏剣術など、様々な稽古に取り組む。一見すると別々の動作だが、実は中身は共通している。剣の斬りは受け身と同じ重心移動をし、手裏剣の投げは剣の斬り、柔術の緩みと同じ動作をする。

 

これらの動作は武術だけでなく、歩き方や食事の所作まで行きとどかせなければならない。「日常即ち武道」という考え方である。

 

溝口は、この考えを槍投げで体現している。ウェイトトレーニングをするとき、やり投げと同様の全身運動にするために、アゴを引いて手足の末端を強く意識する。また歩き方、箸の上げ下ろし、さらにセックスをしているときでさえ、「やり投げに応用できないか?」と考え続けていったのだ。

 

まさに「日常即ち槍投げ」だ。彼にはコーチがおらず師事した人もいなかった。槍投げが日常であり、槍投げが師であったのだ。

 

自分が取り組んでいる古武道と共通する考えに親近感を覚えたが、溝口の槍投げに対する熱量と、トレーニング量の膨大さにはただ脱帽した。彼の練習のメインはウェイトトレーニングであり、その量は全日本レベルの選手の3倍以上。12時間トレーニングした後に2、3時間休み、さらに12時間練習することもあった。想像するだけで吐き気がする量であり、人間の限界をとうに超えている。


 

彼は槍投げのために、人間関係も全て断ち切っていった。大学では練習に専念するため、中学、高校の友人に「もう今までのように会えない」と告げる。やり投げを辞めるまでは恋愛も結婚もしないと決め、特定の女性がいても決して感情移入しなかった。そのストイックさからは狂気すら感じる。

 

こうして溝口はやり投げで世界のトップに立つために、全て捨てて練習に専念していった。彼はまっとうな人であることより、世界トップを目指すことを選んだ。「才能のない自分にはそうするしかなかった」と、彼は振り返っている。

 

常識を疑い続けること、規格外の練習量、槍投げ以外の全てを断ち切る覚悟。その取り組みの結果が、世界最高峰の大会WGP(ワールドグランプリシリーズ)での2位と、28年間破られていない不動の日本記録(87m60cm)を生み出した。

 

表彰状もトロフィーも捨て農家の道へ

 

世界トップに向けて、順調にすすんでいた競技生活だったが、その終わりは唐突に訪れた。練習中にやりを投げた際に、右肩が「バキッ」と、頭に響くほどの音を鳴らした。肩の靭帯を損傷してしまったのだ。その後も競技を続けたが、精密機械のように作り上げた肉体は、二度と元に戻らなかった。もう世界一になれないことを悟った彼は、嘆くでもなく淡々とこの事実を受け入れ、日本GPを最後に現役引退した。33歳のときだった。

 

引退後は、パチスロで生計を立てながら、中京大学の学生の指導にあたった。その教え子の一人に、かの天才・室伏広治がいた。溝口が4、5年かけてつくりあげた技術も、室伏は教えるとすぐに身に付けた。「これほどの才能をもった日本人はほかにいなかった」と溝口は振り返る。

 

室伏は、溝口の指導でウェイトトレーニングをするようになった。最初は鹿のように細かったという室伏の体は、見る間に筋肉をつけていき、バケモノのようなそれになっていった。生まれ変わった室伏は、世界選手権で銀メダルをとった。

 

この銀メダルを機に、溝口は室伏の指導から身を引くようになった。「自分の『作り物』になってはいけない」と考えたからだ。選手自身の工夫ではなく、指導者によって作られ、世界記録を投げても、それは空しい記録ではないか。また自分で試行錯誤して身に付けた技術は、決して忘れない。そんな思いがあったのだ。

 

そして溝口は、かつてのやり投げの教え子で、妻でもある三宅貴子が現役引退したのを機に、和歌山の実家に帰ることを決めた。現役のときに築いた表彰状もトロフィーも捨て、実家の農場で「トルコキキョウ」という花を栽培しはじめた。溝口は現在まで、この花を育てる農業を続けている。

 

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表舞台からいなくなった溝口を、多くの人は忘れていった。だが彼はその事実に対し、それで構わないと言い切り、次のように語っている。

 

 

私には自分に堂々と誇れる過程と結果がある。だから人々から忘れられても、私は何とも思わない。

 

この言葉を、これほど体現している人はどれだけいるだろうか。武道やスポーツに取り組む人のみならず、高みを目指す人にとってこれほど刺激を受ける一冊はないであろう(文 田中一成)。