【前編】書肆侃侃房・田島安江さんが語る半生・文学・短歌・地方出版社すなわち多くのこと

 

出版社の立ち上げ

 

帰国後は数年フリーで校正の仕事をして、それからフリーライターになりました。そのうちJTBのガイドブックを担当していた方と仲良くなって、「一緒に仕事をしないか?」と。「るるぶ」などを丸ごと引き受けて編集したものです。

 

そこで「信用もあるし、どうせなら法人化したほうがいいのでは?」という話になって起業しました。『有限会社の作り方』という本があって、その通りにしたらできちゃったんです。

 

7~8年後、ITに強い子が会社にいたこともあり、ライターズネットワーク(※ライターと編集者をつなぐプラットフォーム)からHPの作成依頼が来たことがありました。それから年に数回、東京に出向くようになり、編集もできるという話をすると「じゃあ、東京の出版社の本の編集もしないか?」と話をいただくことが増えていきました。

 

そのときは新聞でコラムも連載していたのですが、担当だった社会部の人に「山本巖さんの冊子を作ってくれないか?」と話を持ち掛けられました。そこで山本さんと直接お会いして、それまでの特集記事やファイルを見せてもらったのですが、1冊ではもったいないと思い、全部で6冊セットのブックレットにしました。1セットだけ書店に置かせてもらって、残りはDMで注文を取る方式です。これが幸いなことに結構売れたんです。

 

その結果、書店からも「こんな本はないか?」と聞かれるようになり、私としてももっと書店に本を置きたいと考えるようになりました。ただそれまでは、本を流通させるには取次が必要だということも知らなかったんです。それで、ライターズネットワークで知り合った無明舎出版の安倍甲さんや、地方・小出版流通センターの川上賢一さんに協力していただくことになりました。

 

編プロは、川上さんの助言もあってそのまま続けることにしました。出版だけで会社を回すのは難しいと思ったからです。本は売れないのが前提で、川上さんの地方・小出版流通センター経由での流通なので、原則返品不可の買い切りだったりすることもあり、書店員の方から「うちはちょっと」と言われることもありました。

 

なぜ初めから出版社をやらなかったかというと、自分には営業力がないと思っていたからです。幼少期から目立つことや、人前で発言をするのが苦手でした。でも本を作ったからには売らなくてはいけません。だから東京にも営業に行きました。

 

するとやはり、「福岡からですか?」という反応をもらうわけです。販促チラシも受け取ってはくれるけれど、「預かっておきますね」から話が進まない。書店が「置く必要がある」と思う本を作らないといけないのだと気がつきました。

 

旅本などもたくさん作りながら、心のどこかで「誰かがどうしても必要としている本を作りたい」という気持ちが強くありました。戦後世代の私たちが何をすべきか、が命題にあったのだと思います。

 

テレビで話題になり、文庫化、ドラマ化された作品も作りました。『ゆりちかへ ママからの伝言』です。障害を持って生まれた子どもの話や闘病記です。

 

 

私は著者に必ず会うことをモットーとしているので、北海道から沖縄まで、海外でも会いに行き、一緒に手間暇かけて、一から著者と向き合って本を作りました。そうやって築いた信頼関係は10年経っても続いています。旅本から始まり、翻訳、「たべるのがおそい」のような文学にまでジャンルは拡がっていきました。