江古田文学、三田文學、文芸ラジオ。新旧の大学文芸誌が見る”今”と”これから”。

Photo by Paige Barry .

 

大学発刊の文芸誌をご存じだろうか? 大学自体が学校ごとのカラーを持つように、特集・紙面づくり・ページ数など、すべてにおいて、出版社の商業誌とは一線を画した自由な形で発刊されている。

 

出版不況が叫ばれる今、その独自の立ち位置から何を見ているのか。日本大学芸術学部「江古田文学」、慶應義塾大学「三田文學」、東北芸術工科大学「文芸ラジオ」、各編集部に取材した。

 

目次

“面白い場所がある”と伝えることが大学文芸誌の役割 「江古田文学」青木敬士編集長

 

江古田文学
日本大学芸術学部文芸学科に編集部をおく文芸雑誌。芸術を学ぶ場に生まれた雑誌にふさわしい、あらゆる創造者たちの文学的営為の拠点となる雑誌として、現在まで様々な特集を組んでいる。発行は年3回。

 

雑誌とラーメン屋の違いは、変わってもいいこと

 

「江古田文学」の青木敬士編集長

 

――まずは「江古田文学」の創刊の歴史や経緯についてお聞かせ願えますでしょうか。バックナンバーを見ると“復刊第一号”と書いてありますが、復刊とは?

 

「江古田文学」は大昔からあったのですが、しばらく途絶えていたんです。1980年代になり、当時、出版社などのマスメディアは発信する側、読者は受ける側という形が固定していて。けれど、小説を書いたり、文芸評論をしたりしている学生が、作家と同じ紙面に原稿を載せられる場が必要だろうと先生方が考えて、1981年に復刊しました。

 

 

――長い歴史のなかで、佐藤洋二郎前編集長の時代の「江古田文学」も拝見しました。処女作再掲や学生創作などが印象的でした。

 

藤沢周さんや町田康さんなど、プロとして活躍されている作家がデビューしたときの作品を再録して、その方の処女作についてのエッセイも載せていました。「作家になりたい!」っていうスタートから、作家になる境界線の感触を俎上(そじょう)に載せる意図があったのだと思います。

 

プロと同じ場に原稿が載るので、佐藤編集長のときは学生のレベルを底上げしたいという理念がありましたね。

 

 

――それが青木編集長の96号になって、もう表紙を見た瞬間からびっくりしました。こんなにガラッて変わるんですね。

 

「江古田文学」はいつも、編集長が代わると変わるというか(笑)。すごく行列の多いラーメン屋のように、味が変わっちゃいけないものってあるじゃないですか。

 

でも雑誌に関しては、そうでもないと思います。普通、雑誌は売り上げのほかに広告収入でなりたっていますが、最近はなかなか厳しい状況です。でも幸福なことに、僕たちは大学の補助金で印刷ができるんですよ。

 

 

――大学で出される文芸誌の強みですね。

 

そうなんです。じゃあそのなかでどういう風にやっていけば良いか。雑誌に関して僕が思うのは、パラパラとめくっているだけで、「こんな面白い遊び方があるのか」とか「こんな便利そうなグッズがあるのか」とか、自分の知らなかった世界や知識にリーチできるというか、それが強みだと思ったんですよね。

 

でももちろん、学生は自分の文章を市販のクオリティのレベルで書かなきゃいけないっていうプレッシャーがあるじゃないですか。適当なもの書けないぞ、同人誌じゃないから、という気概は必要です。そういう意味での器の部分は変わりませんが、私になってからは、学生が興味を持たないとダメだろうということで、少し変えることにしたんです。

 

 

――これまではなかった「特集」も始まりました。

 

以前は特集という形を作っていなかったんですね。だからやってみようと。96号では、あえて声の文化に一回戻そうと思って、「文字から声へ」という特集にしました。落語・音楽・短歌・朗読、最後にはボーカロイド文化まで含めて特集しています。

 

大学文芸誌だからこそできる冒険

 

――雑誌自体もエンタメ寄りに舵を切りましたよね。そのあたり、コンテンツの形も変わられて、批判といいますか、硬派な文芸誌を期待していた人から何か声は上がりましたか?

 

それはあるかもしれないですよね。けれど恐れていたらできないですからね。雑誌っていうのは編集長が代わるとこんなに変わるんだよっていうこと自体がメッセージですので。それは僕の次の編集長のときにも同じことが起こります。雑誌の看板は変わらないけれども、ガラッとリニューアルしていく。

 

はっきりいうと、そこで売り上げをあまり気にせずできるのが大学の文芸誌ですので、思い切ってやらせていただいていますね。

 

 

――江古田文学賞も一新しましたよね。

 

はい。芥川賞とかの文学賞は発表されているものだから、読もうと思えば読めますが、新人文学賞だと最終的に選評でしか落ちた作品を知ることができないわけですよね。なので、いっそ候補作を全部収録しちゃえ、最終選考会で話していることも全部載せちゃえって感じで載せました。どういう風に選考が行われているかを透明化したので、選考委員たち自身も、目利きの腕を問われます。

 

また候補作が全部載っているので、こっちのほうが面白いとか、ここでこう言っているけど俺はそうは思わないとか、読者が自由に参加できる形の、文学賞や選考自体を一つのエンタメにできればと。

 

 

――96号では、雑誌をPDFで無料配布されていて衝撃的でした。あの試みはなぜ?

 

今は有名雑誌でもそんなに売れない時代です。そのなかで、全国の物を書きたいっていう人たちが集まってくる、こういう学部があるよってことを知ってもらいたいんですよね。今はもう色んなものがフリーの時代だし、そこは変えていかないとだめだと思うんです。

 

ただ、中身は公開するけれども、PDFだと読みやすくはないんですよ。だから、本の形で読むときの快楽が得られないから、その分を差し引いて無料で大丈夫ですって気持ちです。(※97号からは特集部分を無料配布中)

 

 

――すごいいろいろ変わったんですね。表紙はどなたが描かれたんですか?

 

「文字から声へ」っていう特集であることを伝えて、卒業生に描いてもらいました。若い人たちが「おっ!」て思うフックをつけるというか、文芸誌なんだけどあえてライトノベルのような感じにしたくて。

 

絵は厚塗りの、あんまり萌え萌えしていない絵だけれども、サブカル好きな人にはどこか刺さるように。文章も録音も、当人がそこに居なくても届くわけじゃないですか。そういう文字文化、声文化っていうものを象徴するような絵にしたかった。

 

 

ネットで起きていることを紙メディアで実現したかった

 

 

――じゃあ97号もかなり凝った感じに?

 

97号の特集は「動物と文学」です。動物っていうのは本来、人間の言葉を理解できないし、人間の言葉を話してもくれない。

 

けれども例えば、ディズニーの『ズートピア』とか『ファインディング・ニモ』とか、動物を擬人化して、まるで人間かのように喋らせる。言葉無きものに言葉を仮託する作品が多いですよね。人間はなんでそんなことしちゃうんだろうとか、そういうところも含めて特集にしていきたかったんです。

 

 

――どのような内容なのでしょうか。

 

僕は47歳なんですけれども、今の学生とは見ているものや面白いと思うもの、かっこいいと思うもの、全部違うと思うんですよね。だからそういう感性で気軽に書いてもらうためには、なるべく短い文章をとにかくいっぱい入れようと思って、「動物と文学」って言葉で思いつくような作品の、440文字くらいのレヴューを、古今東西90本集めたんです。

 

「人外はどこにいるのか」ということもテーマになってます。モンスター娘とか、神話のケンタウロスといった〝人外〟。そういうものに対して、萌える人たちがいるんです。実際、人外を扱ったものをレヴューとして寄せて来る学生がすごく多くて。文学だけじゃなく、動物が関わる漫画・映像・ゲームについても書いてもらいました。

 

 

――かなり多様というか、文芸誌という枠にとらわれない試みですよね。

 

はい。そういった形で、参入するハードルを下げつつ、今の若い人たちがどんな作品に惹かれて、どういう作品を面白いと思っているのか、人に紹介したいと思っているのかを見せました。メディアに文章を載せることへの垣根を低くしながらも、小さいものや個別のものがいっぱい集まることで、一つの集合知になるっていうような、まさに今のネットで起こっていることを紙メディアでしたかったんです。

 

例えばゲームのレヴューは90本中12本あるんですけれども、どこが動物と文学なんだっていわれるかもしれないです。実際「単なるゲームレヴューじゃないですか」と編集部員から言われました。けれど僕は「そうじゃないんだ。ゲームというのは人間の反射神経だけに依拠してて、言葉で考える、思考する暇を奪う、反射神経だけになる、それはむしろ人間を動物化するものなんだ」って。

 

文学は全部言葉で書かれている訳じゃなくって、人間から言葉を奪う、言葉で考える暇を奪うみたいな、そういうことすら新しい表現のなかにあるんじゃないかと思うんです。だから、全然ストーリー性がなく、ただ単にキャラクターが動物なだけのゲームレヴューも載せています。

  

新参者に優しくないとメディアは滅びる

 

――その次の特集でも面白いことを考えていらっしゃるかと思いますが、どのようなことを?

 

次の7月25日に発売の98号は「この世界の終わりかた」っていう終末モノを特集しようと考えています。終末モノって、80年代だと核戦争の恐怖とか、ノストラダムスの大予言みたいな、世紀末の終末論はあったんですけれども、最近はそういう絶望を落とし込むような終末だけじゃない。

 

『けものフレンズ』とか『少女終末旅行』とか、終末を甘んじて受け入れながらもそのなかで生きている、そういう優しい終末があるじゃないですか。そういうものをまた「動物と文学」みたいに網羅したくて。

 

あと世界の終わりを考えたときに、小さい世界、たとえば誰かとドロドロの関係になって、それを終わらせるっていうのも、その人にとっては終末な訳ですよ。自分の半径数メートルのなかだけども、その人が今まで信じていた世界の終わり。そういうモチーフで、また原稿募集をして98号は作ろうかなと思っています。

 

 

――話は変わりますが、現在は活字離れと言われています。やっぱり読む学生が減っているなと感じたりすることはありますか?

 

うーん、確かにそれはあるんですけれども、日芸文芸学科は書く人のための場なので、やっぱり読んでいる学生が多いですね。きっと、読まないと書こうと思わないんですよ。

 

僕はSFが好きで、SF小説論の授業も持っているんですけども、『夏への扉』っていうオールタイムベストみたいなSFですら読んだことがある学生、意外にいないんですよね。だから古典的名作、エンタメ界の古典的名作みたいなものでも、読んでいない子が作家になりたいと言って入ってきています。

 

でも、その『夏への扉』をはじめとした名作の影響を受けて小説を書いた次世代の作家がいて、そういう作家たちのを読んでいるんですよ、今の子たちは。それが電撃文庫のラノベだったりということもあると思うんです。だから決して読んでいないわけではなくて、僕らには見付けられていないものを読んでいるんですよね。

 

 

――では今後、「江古田文学」の編集長として目指していきたいことを教えてください。

 

大学の文芸誌が伝えられることって、僕は「場」だと思っています。うちの文芸学科は創作をしたいっていう学生が集まってくるところです。ゼミの雑誌を含め、紙メディアを作っている場所がある。印刷予算とかは大学が出すわけなので、多分大学が潰れないかぎり、ペーパーメディアを日常的に出し続けます。

 

しかも一学年130人、4学年全員だと520人の村のなかで、たくさんの本を出版しているわけですよ。そういう面白い場所があるぞって伝えて、盛り上げていきたいんですよね。

 

コミケとか同人誌といった場もそうですけど、一つの内側の場で回転しているなかからぽっと雑誌が出てくる。その大学内バージョンがこの「江古田文学」なんですね。そういうポジションでずっと作っていきたいです。

 

もちろん、知ってもらいたい・読んでもらいたいっていうのが一番にあるので、毎回若い人の興味を引くような特集を組みたいです。やっぱり新規参入者がいないと、どんなメディアもジャンルも滅びるんですよ。とにかく新参者に優しく、という感じですね。(次ページは「三田文學」編集長へインタビュー)

 

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