演劇翻訳家という職業をご存じですか。異国の言語で書かれた台本を、日本語での公演向けに翻訳するのが役割で、優れた言語能力だけでなく、世界観を忠実に再現するための作品への深い知識が必要な職業です。小説や詩などを翻訳する文芸翻訳家の中でも、演劇翻訳家はさらにニッチとされています。
演劇翻訳家として活動されている阿部のぞみさんに、お仕事の難しさと面白さ、そして演劇翻訳家としての生き方を伺いました。
阿部のぞみさん エディンバラ大学大学院にて翻訳学の修士号を取得後、イースト・アングリア大学大学院にて文芸翻訳の博士号を修了。現在はカーディフ大学で講師を務める傍ら、演劇翻訳家として活動している。昨年2022年には、阿部さんが翻訳家として携わられたミュージカル『ボディガード』が梅田芸術劇場と東京国際フォーラムにて公演された。 |
自分の夢だけは英語で言えるようにしていた
――阿部さんは翻訳家としてどのように活動されているのですか?
大学で翻訳学を教えているのが半分、もう半分は演劇翻訳家として働いています。現在は英語から日本語が2本、日本語から英語が1本で合計3本の演劇作品の翻訳を行っています。時期によって関わる作品の量に大分ムラがあるのですが、複数の作品を並行させて訳すことは少なくありません。
――産業翻訳(※)や映像翻訳を行うこともあるのですか?
自分で優先順位をつけていて、演劇翻訳が最優先。それがない時は産業翻訳や映像翻訳の仕事を受けています。例えば産業翻訳でいうと、医療の研究は常に止まらないので、いつでも医療翻訳の仕事を受けられるんです。
ロックダウンですべての劇場が閉まっていた時期は、演劇翻訳の話が全く来なくなってしまったので、医療翻訳が命綱になっていました。広い分野を訳せるに越したことはなくて、文芸関係が好きな人は自分の好きなジャンルとは別に、他の分野にも対応できるのが理想です。
※一般的に翻訳は主に医療やIT、特許に関する文章を訳す産業翻訳、字幕の翻訳を行う映像翻訳、小説や詩などの文芸翻訳の3つ分野がある
――演劇翻訳は文芸翻訳の中でもマイナーで、翻訳全体で見ればとてもニッチな分野かと思います。幼い頃から翻訳に興味があったのか、また演劇翻訳家になろうと思っていたのですか?
父がイギリス系の会社にいて、母がCAとして働いていたので、幼い時から英語を教えてもらえる環境にはありました。そして英語にずっと憧れがあって。どこかで読んだ「火曜日は彼女が花屋に入っていくのを見た(Tuesday saw her walk into the florist)」っていう表現がすごく面白いと思ったんです。そういう英語に特有の表現に興味を惹かれたのが最初です。
幼い頃から舞台に連れて行ってもらっていて、原作の訳本を読むのも好きでした。でも翻訳家になろうと思ったのは大人になってからでした。
――文芸翻訳は、産業翻訳や映像翻訳と比較して、一つ目の仕事を得るのが大変だという印象です。阿部さんはどのようにされたのですか?
最初のきっかけはラッキーでした。イギリスでの在学中に、大学の学部長の紹介で日本人の劇作家・演出家の方とお会いする機会があって、その時に「将来はこんなことをしながら、演劇界にしがみついていきたい」って伝えたんです。そうしたらその方が一つ目の演劇翻訳のお仕事をくれました。『メアリ・ステュアート』という作品です。
――運の要素もあったのかもしれませんが、自分がやりたいことを常日頃から周りに伝えておくのが重要だと感じさせられるエピソードです。
渡英したばかりで英語をそんなに喋れなかった時期でも、とりあえず自分がやりたいことだけは英語で言えるようにしていましたね。実験みたいに色々言ってみると良いと思いますよ。どこに可能性が潜んでいるかわからないですから。
演劇翻訳は相互的に人が関わっている状態が理想
――具体的な舞台翻訳の仕事内容についてお伺いしたいです。演劇翻訳のお仕事は依頼される場合が多いのでしょうか、それとも自分で企画を持ち込むのですか?
両方あります。大きいプロダクションだと声をかけていただけることが多いです。一方で東京の劇団でよくお仕事をしている時期があって、その時には結構企画書を持っていきましたね。それで2作品くらいは公演まで行きました。
――そこからのプロセスはどのようなものなのですか?
台本を送っていただいて、初稿は一人で訳します。主役級の役者さんが決まっていたらその方の声を頭に流して、この人だったらこういう風に言ってくれるかな、と想像しながら訳します。役者さんが全く決まっていなくても、こういう役者さんだったらいいなっていう人の声を頭に流しながら訳しますね。
そして一通り訳し終えたら、声に出して読みます。傍から見ると完全に変な人なんですけど、訳を声に出してみると役の一貫性が見えるんです。大きいプロダクションだと、若い役者さんに協力してもらって読み合うこともあります。そこで、意見をもらったりもしますね、「このキャラはこんな風に言わないとおもうんですけど」みたいな。そして編集したものを制作さんに送り、稽古場初日を迎えます。
――阿部さんは翻訳家ですが、稽古にも行かれるのですか?
これは翻訳家によって異なるのですが、私は稽古に呼ばれなくても行く派です。演劇翻訳は相互的に人が関わっている状態が理想だと思っています。例えば、原文にあることを、翻訳の本文に全部こめられない場合があります。そういう時は、照明さんなどに伝えて、少しでも劇に反映できたら面白いんじゃないかな、と思って伝えます。『ボディガード』を訳した時はコロナの直前だったので、稽古場には毎日行きました。
――翻訳家のお仕事は基本的に部屋にこもって一人でやるものだと思っていたので、そこまでインタラクティブだとは想像していませんでした。一つの作品が公演を迎えるまでどのくらいかかるのですか?
初稿を訳してから、最終的に公演を迎えるまで最短で2年はかかります。でもものすごく急ぎのものありますよ。5日間で訳して下さい、みたいな(笑)。
オマージュを反映させるのが難しいSF翻訳
――阿部さんが翻訳で携わられた作品についてお伺いしたいと思います。前川知大さんの『太陽』という舞台の翻訳を字幕で担当されていますよね。訳してみてどうでしたか?
『太陽』(2011年)
劇団イキウメの劇作家・演出家である前川知大さんが手がけた演劇。2016年には映画化もされている。未知のウイルスで荒廃した後の日本で、人類は既存の人間「キュロス」と超人的な生命能力を有しながらも太陽光に異常に弱い「ノクス」に二分され暮らしている。ある日、キュロスの主人公が住む村に起こったある事件から物語は始まり……。
SFというジャンルが難しかったです。SFを舞台でやるっていうのはすごく難しいことだと思いますし、SFファンの方ってオマージュが好きな気がします。それを見落としたくないっていうのがありました。SF作品には作者がそれまで読んできたものがモチーフとしてリピートされていて。この作品にも入っているんですけど、それを上手く拾って反映させるのが大変でした。
――作品の舞台は日本でした。文化的な側面を訳す過程で苦労したことはありましたか?
作品中に出てくるのは作られた言葉だったり、作られた観念で日本文化に特有なアイテムはなかったですし、その観点からの難しさはそこまでなかったですね。
――それに関連して、ある文化に特有なものを訳す時にどうされているか伺いたいです。例えば、日本文化に特有な芸能人、タモリさんを訳す場合はどのような方法が考えらえるのでしょうか?
そういった要素を訳す場合は、訳し方に1つの答えがないところが面白いです。翻訳先の文化でタモリさんと同じような人に当てはめて訳す方法と、そのまま借用して書き換える方法(トランスリタレイト)の間には2つが混在した無数の方法があって。絶対的な正解はないんですけど、誰のために訳しているかで選びます。
後は日本語へ訳している時の傾向と英語に訳している時の傾向があって、日本人ってやっぱり異化(英語らしさを残した日本語訳)が好きなんですよ。でも英語に訳す時はその逆が好まれる傾向があります。
タモリさん、私だったらどうするかな。でも一番面白いのは振り切って、全部書き換えるんです。例えば日本の渋谷で起こったことをロンドンで起こったことにして、そこに(イギリス文化における)タモリさん的な人をあてがってやるみたいな。
翻訳と脚本の関係 – 発想をジャンプさせてくれる
――阿部さんがオリジナルの脚本を担当された『KUWENTO物語』について伺いたいです。同作品にはどのような経緯で携わられたのですか?
『KUWENTO物語』
ロンドンを拠点とするカンパニー、テアトル・ラピスが主体となって作製された、インターナショナルな日本昔話のデジタル絵巻。クリエイティブな絵、音楽、音声(英語)で日本人なら誰もが知っている昔話が紹介されている。
ロックダウンの際に翻訳家だけではなく演劇人が、特に役者さんが活躍できる場がなくなってしまったんです。その時に国際交流基金のマニラ支部から、知り合いの役者さんを通して話を受けました。演劇的なことができなくてフラストレーション溜まっていたので、助成金を取ってきて自分たちでやってみようって。そして知り合いの役者さんに、微々たるものですけど出演料が入るようにしました。
――同作品はオリジナル脚本でありながらも、日本の昔話が元ネタになっていて、そういう意味では翻訳の要素も含まれているように感じました。翻訳が脚本執筆に与える影響はあるのですか?
演劇の言葉ってあると思うんです。例えば、おとぎ話の登場人物が話している言葉って、日常的な言葉遣いとはやっぱり違います。そういう意味では演劇の言語は異次元の言語で、その異次元の言語や世界を作るのに翻訳調が活きます。英語特有の無生物主語であったり、リズムが発想をジャンプさせてくれるんです。
演劇翻訳は異次元で刹那的
――演劇翻訳と別の文芸翻訳、例えば小説の翻訳の違いは何ですか?
語弊があるかもしれないですけど、小説は紙から紙ですよね、それは二次元だと思うんです。でも演劇翻訳は、私が訳したものを見て照明を考える人がいるし、セットをデザインする人がいます。また、色々な役者さんが関わっていたり、歌があったりする。だから、演劇翻訳は三次元、それを超えて異次元なんです。そこが面白いと思います。
訳せないものを訳すのが翻訳家の仕事かなと思うんです。そして訳せない言葉は翻訳元の文化を表していることが多くて。演劇翻訳は二次元じゃないから、そういった要素を照明さんや衣装デザイナーさんに伝えることによって、言語のレベルを超えたところにも携われます。
さらに演劇台本の翻訳って、シェルフライフ(賞味期限)が一番短いと言われています。世界がめまぐるしく変わっていくじゃないですか、言葉の意味もそうで。だから舞台の稽古場も毎日変わっていきます。例えば、ダブルキャスト(同じ役を二人の俳優が演じること)の際には、役者さんによって役柄の解釈が異なるんですよ。そういう場合には、原文を逸脱しない範囲で訳を変えたりします。
――最後に、翻訳家を目指している方に向けてアドバイスを頂きたいです。
まずは諦めないことです。(翻訳家全体の中で)文芸翻訳家として活動できる人は、10%とか場合によっては1%って言われるんですよ。でもいろんな人に諦めないこと、って言われてきました。劇作法を学んでいるときに、劇作家の方がゲストスピーカーとして来てくださったことがあったんです。その方が、「皆さんと同じように勉強しているとき、私より文章をうまく書く人はいました。でも劇作家として今でも活動しているのは私だけです。それは私が諦めなかったからです」と仰っていて。とても勇気づけられました。
また、スティーブン・キングは出版社に書いたものを持ち込みに行っている頃に、不採用書を釘で壁に打っていたらしいんですよ。で、14歳になるまでに最初の釘で受け止められなくなったから、もっと長い釘を打ち込んで書き続けたっていう逸話があって。あのスティーブン・キングでダメなら、自分は企画を一社二社断られたところでどうするんだっていう。
具体的なところだと、紹介できたら面白いと思える作品を訳してみるといいです。実際にやってみるとわかることが結構あります。私もショートストーリーを訳して先生見てもらったことがあります。かすかな手応えを感じました。
実際に行動に移すという意味では、自分の夢に関わることを色々やってみるのもいいです。以前、演劇の仕事をしているんだったら歌う人の気持ち、踊る人の気持ちが分からないとダメですよって言われて。それでバレエを始めて、今でも続けています。
取材を終えて
演劇翻訳家という職業のプロセスを見ることによって、演劇翻訳にとどまらず、翻訳作品の楽しみ方のヒントが得られたのではないでしょうか。またインタビューを通して、活躍できる席が少ないからと言って諦めずに、あらゆる場所に可能性を見出しトライし続ける大切さを感じられたと思います。
これを機に、翻訳家を目指している方だけではなく、少し人と変わったことをしてみようと心の中でモヤモヤしている方も何かアクションを起こしてみてはどうでしょうか。(取材・文 ただ)