イケメン、美女、少年…キャラクター化された文豪たち なぜその姿なのか?を徹底考察

サブカルチャー大国である日本では、どんなものもキャラクターになる。競走馬、偉人、刀剣、細胞、国……。そうしたモノに我々が抱くイメージを抽出し、親しみやすい形を与えたのが彼らなのだ。

名だたる文豪たちもまた、数多のコンテンツでキャラクター化されている。しかし、同じ文豪をモチーフにしていても姿や性格はバラバラだったり、デザイン者が異なるのに似通ったところがあったりする。一体元となった文豪のどんなところからインスピレーションを受けてデザインされているのだろうか?

今回は特に有名な文豪コンテンツである『文豪ストレイドッグス』(以下文スト)と『文豪とアルケミスト』(以下文アル)に共通して登場するキャラクターを取り上げ、共通点や違いがどんなところから生まれているのかを考えていこうと思う。

『文豪ストレイドッグス』

文豪をモデルにしたキャラクターたちが、作品などにちなんだ異能力を用いて戦うアクションバトル漫画作品。

『文豪とアルケミスト』

文学作品の侵蝕を止めるべく、転生させた文豪を育成して侵蝕者と戦うシミュレーションブラウザゲーム。

目次

芥川龍之介

芥川龍之介の肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

文ストの芥川龍之介(公式サイトより)

文アルの芥川龍之介(公式サイトより)

この二人、どちらも芥川龍之介である。言われなければ同じ文豪とは分からないだろう。まず『文スト』の芥川であるが、使用する能力名が「羅生門」であることから、彼の代表作のひとつ『羅生門』をモチーフにしていることは明白である。

『羅生門』

京の都が、天災や飢饉でさびれすさんでいた頃。荒れはてた羅生門に運びこまれた死人の髪の毛を、一本一本とひきぬいている老婆を目撃した男が、生きのびる道を見つける『羅生門』。芥川文学の原点として注目されており、高校国語教科書に現在も採用されている。

『羅生門』の作風や、敵サイドのキャラクターとして登場していることから、全体的にダークで苛烈な部分が押し出された芥川龍之介となっている。

対して『文アル』の芥川は穏やかそうな印象を受ける。こちらはいくつかの著書をデザインに組み込んでいるが、中心となっている作品は『歯車』や『河童』である。ゲーム内でも最高レアリティに当たるキャラクターであり、偉大な作家・年長者のようなイメージが付けられている。

この二人の違いは、モチーフにしている作品の執筆時期である。『羅生門』は芥川の初期の作品、『歯車』や『河童』は晩年の作品だ。初期は人間のエゴを描いたような作品が多く、晩年は人の生死を取り上げたような作品が多い。作品のこうした特徴が、キャラクターの性格として表れていると考えることができるだろう。また、『文スト』の芥川が20歳で、『文アル』の芥川が年長者ポジションであることも、これが要因になっていそうである。

『歯車』

「僕」は知人の結婚式に向かう途中、レインコートを着た幽霊の話を耳にする。その後義兄がレインコートを着て自殺したと知り、死についての連想に取り憑かれるようになる。視界の端に半透明の歯車が見えるようになるほど歪んだ精神状態の中で、「僕」は眠っている間に誰かが絞め殺してくれないだろうかと望むようになる。

『河童』

主人公の精神病院患者が語る河童の物語。山で見た河童を追ううちに、すべてが人間世界とは逆の「河童の国」に迷い込んだ主人公。やがて人間界に戻ると、河童は人間より「清潔な存在」であると感じるようになり、対人恐怖を強めてゆく。

中原中也

中原中也の肖像(中原中也記念館WEBサイトより)

文ストの中原中也(公式サイトより)

文アルの中原中也(公式サイトより)

芥川とは一転、両作品の中原中也にはパッと見てわかる共通点がある。帽子と外套、やんちゃそうな顔立ちだ。この特徴の出典は言わずもがな、史実の中原中也その人である。

「中原中也といえば」と言っていいほど有名なこの写真。見たことがある人も多いのではないだろうか。ここで本人が身に付けている黒い帽子と黒い外套が、キャラクターデザインにおいても中也のアイコンとして描かれているのである。そのほか、両作品の中也が共通して低身長であることや酒好き(何なら酒乱)であること、太宰治に突っかかりがちなところも、史実の中也の特徴をそのまま取り入れている部分だ。

このように、モデルとなった文豪に共通認識となるほどの分かりやすい特徴や有名なエピソードがある場合、それがキャラクターにも色濃く表れるのである。

泉鏡花

泉鏡花の肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

文アルの泉鏡花(公式サイトより)

文ストの泉鏡花(公式サイトより)

特筆すべきは、『文スト』の鏡花が可憐な少女の姿でキャラクター化されていることである。言うまでもなく史実の鏡花は男性であり、写真でもしっかり男性の姿をしている。それで言うと『文アル』の鏡花も女性的な見た目の男性として描かれているのだが、こうしたイメージはどこからやってきているのだろうか。

名前というファーストインプレッションはその大きな要因になっているのではないかと思う。文学に関心の薄い人からすると泉鏡花の知名度はそれほど高くない。代表作を知らないという人も少なくないだろう。そうした人物を大衆に向けたコンテンツでキャラクターにするとき、名前は最初に何かしらの印象を与えられる要素になる。

それで言うと確かに漢字の並びや響きからして「女性なのかな?」という印象を与えられる名前である。それに加え、幻想的で繊細な鏡花の作風や文体もこの印象を後押ししている。これらから連想される「女性らしい」というイメージが、キャラクターデザインに活かさない手はない大きな特徴となって表れているのだろう。

まあ、織田信長すら美少女化する国であるので断言はできないが、少なくとも芥川龍之介と泉鏡花なら圧倒的に後者の方が女の子の姿がイメージしやすいのではないだろうか。

宮沢賢治

宮沢賢治の肖像(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

文アルの宮沢賢治(公式サイトより)

文ストの宮沢賢治(公式サイトより)

この二人の宮沢賢治はどちらも少年の姿で描かれている。しかし、宮沢賢治は幼い頃に作品を発表して有名になり、少年のまま亡くなった訳ではない。37歳と若くとして死去するも、れっきとした大人である。この「少年」というイメージは、彼が童話作家であることに由来するのだ。

例えば、宮沢賢治という名前を出さず「ある文豪をモデルにしたキャラクターです」と言ってこのイラストを見たとする。すると、少年という見た目だけで何となく「子ども向けの話を書く人なのかな」という察しがつかないだろうか。泉鏡花の項でも述べたが、一見してどれだけの情報を与えられるかというのはキャラクターデザインにおいて大切なことである。そうした効果を狙い、童話作家の表現として「子どもの姿で描く」という一つの形式が存在しているのではないだろうか。

また『文アル』では達観した物言いをしたり、弟子的な関係の文豪から敬語で話しかけられたりしており、「転生した文豪」という設定も強調されているのだろう。

『文アル』で中性的な外見なのは、宮沢賢治に限らず、同作の童話作家キャラでは共通していることが多いので、深い意味はなく、単にそういうデザイン方針なのかと思う。


考察をしてみたが、いかがだっただろうか。あくまで筆者の主観によるところが大きいためここで述べたことがすべて正解とは言えないであろうが、それにしても史実や作品、デザインの効果など、様々な要素を混ぜ込んで彼らが形作られていることに変わりはない。

何気なく見ていたキャラクターたちのデザインにも目を向けてみると面白いだろう。きっと作り手のこだわりが見えてくる。(文 サトウエイ

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