矛盾だらけだから愛おしい?『富嶽百景』のひねくれた男から見える人間らしさ

私たちは、なぜか自分の行動に一貫性を求め、過去の自分と矛盾する行動を嫌う。そして一度決めたことを覆してしまうと、「飽き性」「芯がない」と責めがちだ。けれど、きっと本当は人間って矛盾ばかりで一貫性がないもの。太宰治の短編小説『富嶽百景』の主人公は、そんな人間らしさに溢れている。

『富嶽百景』あらすじ
太宰自身が主人公のモデルとなっているこの物語。作家を志す主人公は、井伏鱒二への弟子入りをきっかけに甲州へ引っ越す。そこから東京に戻るまで、約3ヶ月間の山梨での出来事が描かれている作品だ。物語は、主人公の身に起こった出来事が、富士に絡めながら語られていく構成になっている。

主人公は、一言でいうとひねくれている。『富嶽百景』というタイトルにもかかわらず、富士の批判から物語は始まる。

富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとへば私が、印度かどこかの国から、突然、鷲にさらはれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落されて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだらう。

広重をはじめ、多くの絵師がその美しさを評価してきた富士。それを、「のろくさと拡がり」などと酷評している。富士の頂角の角度を取り上げている部分からは、理屈っぽくて少しめんどくさそうな人間性が垣間見える。

『富士三景』に数えられるほどの絶景、御坂峠からの風景に関しても、

私は、あまり好かなかつた。好かないばかりか、軽蔑さへした。あまりに、おあつらひむきの富士である。(中略)どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。

と酷評している。俗なもの、普通なものは嫌い。そんな斜に構えた主人公の語りに付き合わされるところからこの物語は始まる。

富士は、主人公の感情によって見える景色が変わる。まさに「情景」の面白さを味わえるのがこの作品の大きな魅力だ。語られるエピソードの一部を取り上げ、その時々の主人公の感情に焦点を当てることで、矛盾に宿る人間らしさの魅力を味わいたい。

目次

東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。

主人公が甲州へ移る直前、自分一人では抱えきれない負の感情に苛まれ、どうしようもなくなってお酒に走ったという一節がある。そのときに見える富士は、主人公の心情に重なっている。

東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はつきり、よく見える。(中略)左のはうに、肩が傾いて心細く、船尾のはうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似てゐる。三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。

苦しいという率直な表現が胸を打つ。沈没していく軍艦に例えられた富士の姿からは、主人公の暗い絶望感が伝わってくる。

いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった

甲州へ来た数日後、主人公は、井伏氏とともに三ツ峠へ登る。綺麗な富士がみられると噂の場所だが、富士の霧が深く、残念ながら富士をみることができなかった。しかし、立ち寄った茶店の老婆が、一生懸命に富士の美しさを語ってくれるのだ。

茶店の老婆は(中略)茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立つてその写真を両手で高く掲示して、ちやうどこの辺に、このとほりに、こんなに大きく、こんなにはつきり、このとほりに見えます、と懸命に註釈するのである。私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑つた。いい富士を見た。

今まで散々富士の批判をしていた主人公が、富士の、しかも目に見えない富士の魅力を語る場面である。老婆の厚意のありがたさに感動し、美しさを感じるこの描写からは、主人公の温かさや素直さを感じることができる。富士を酷評するひねくれた面ばかり見ていたからこそ、それとは正反対の温かさや素直さが際立つ。

なあんだ。甲府からでも、富士が見えるぢやないか。ばかにしてゐやがる。

主人公が結婚する相手に、自分の実家から援助がもらえないことを打ち明けるシーンのこと。話が一通り終わって安堵しているところへ、主人公は結婚相手から「富士山にもう雪が降ったのか?」と質問をもらう。

私は、その質問に拍子抜けがした。「降りました。いただきのはうに、――」と言ひかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がした。「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるぢやないか。ばかにしてゐやがる。」やくざな口調になつてしまつて、「いまのは、愚問です。ばかにしてゐやがる。」

ふっと気が抜けたシーンが描かれていることによって、主人公がとても緊張していたことが伝わってくる。と同時に、気を抜いた途端にボロが出てしまう不器用さが垣間見える瞬間でもある。緊張して必死に取り繕った「ちゃんとした自分」の後に、ちょっと育ちが悪そうな「本当の自分」が顔を出す。悪いところを見せられているはずなのに、その前の格式ばった話し方よりもよっぽど好きだと思ってしまうのはなぜだろう。

富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。

ある日、主人公の元を新田という青年が訪ねてくる。新田と話しているうちに、実は太宰がひどいデカダンだと噂されていたため、ここにくるのが怖かったけれど、ちゃんとした人で安心したと打ち明けられる。

私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。「いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。」富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。

最初に「あまりにおあつらい向きの富士」と称した、御坂峠から見える富士を今度は絶賛し始めた主人公。自分が褒められると、あんなに酷評していた富士を急に褒め出す単純さに、思わず笑ってしまう。自分が承認されて嬉しい気持ち、一方でそんな承認に一喜一憂してしまう自分をばかばかしいとも思う気持ち。どちらも認めて富士に託してしまう、そんな主人公のユーモアも伝わってくる一節だ。

富士に、化かされたのである。私は、あの夜、阿呆であつた。

新田の友人たちと仲良くなって、一度吉田で飲んだ時の話だ。散々くだらない話をした後の帰り道で、主人公は財布を落とす。引き返して無事に財布を見つけたのだが、そのときの心情描写がユニークだ。

財布は路のまんなかに光つてゐた。在るにきまつてゐる。私は、それを拾つて、宿へ帰つて、寝た。富士に、化かされたのである。私は、あの夜、阿呆であつた。完全に、無意志であつた。あの夜のことを、いま思ひ出しても、へんに、だるい。

ただの酔っ払いの言い訳じゃないか、と突っ込みたくなってしまう。語りもちょっと妄想が入っていて、少し支離滅裂である。文化人を気取る主人公の、かっこ悪い部分。そんな部分が垣間見えているのに、相変わらずちょっとかっこつけようとしてしまう、そんなダサさが一周回って愛らしく思えてしまう。

富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ

10月に入っても、主人公の仕事はなかなか進まない。夜中に、ふと富士をみながら自分の仕事について考え込む。

私の世界観、芸術といふもの、あすの文学といふもの、謂はば、新しさといふもの、私はそれらに就いて、未だ愚図愚図、思ひ悩み、誇張ではなしに、身悶えしてゐた。

今までよりも一段深くて重い感情が吐露されている場面だ。表現者としての奥深い苦悩、辛さが感じられる。酒を飲んで楽しく過ごしたり、人のあたたかさに感動したり、そんな主人公を見ているからこそ、表現者としての主人公の中に深く渦巻く不安や疑念に共感し、少し悲しい気持ちにさせられる。

そんな苦悩を抱えている主人公は、買い物をしている遊女たちの姿を見かけて、苦悩している自分の姿を重ね合わせる。個人の苦しみや凋落など無視して進み続ける世の中の冷たさ。世の中はそんなものだと割り切ろうとするも、遊女たちを無視しきれずに苦しむ主人公。

苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。さう無理につめたく装ひ、かれらを見下ろしてゐるのだが、私は、かなり苦しかつた。富士にたのまう。突然それを思ひついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ。

主人公は自分では抱えきれないこの状況や感情を、全てまとめて富士に託す。文句を言ったり批判したりはしているものの、結局富士への信頼や愛が確かに主人公の中にあることを感じさせてくれる一節だ。表面上の冷たい言葉との対比により、言動とは裏腹な心の中の強く深い信頼が伝わってくる。

めんどくさいって、愛おしい。

口では富士を酷評しながらも、富士への愛着や信頼が節々に感じられるこの作品。だけど、そんな主人公の素直じゃない部分、矛盾だらけの部分が描かれていることで、富士への愛がより生々しく伝わってくる。私たち人間の魅力は、そんな矛盾やめんどくささにこそ宿っているのかもしれない。この主人公のように多面性を愛し、その時々の自分らしく生きていきたいと、少しだけ気持ちが軽くなるのではないだろうか。(文 月に吠える通信編集部)

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