※この記事は事実を元にしたフィクションです。
都内某所。ラブホテルの自動ドアをくぐり、受付に会釈をして部屋番号を伝える。エレベーターの中でキッチンタイマーを90から10を引いた数にセットする。ドアの前でタイマーをスタート。チャイムを鳴らすと控えめにドアが開き、男性が私を迎えた。今からこの男性を射精させるのが私の仕事だ。
風俗嬢をやっていると利用客から差し入れを頂くことがあった。定番は生洋菓子で、ビアードパパのシュークリームやマンスリースイーツのケーキやプリンなどである。某ひよこ型饅頭など地方定番の土産菓子を頂くこともあったが、この場合相手は出張のついでとして風俗を利用しているようだ。出張先で済ましてしまえば地元の知り合いに目撃されたり、パートナーに知らないボディーソープの香りで勘付かれたりする心配が無いということである。
差し入れは地元で買った土産菓子……ともすれば、出張出発前、地元の駅でこの菓子を購入している時点で風俗の利用を計画しており「よし! 向こうで風俗に行くぞ!」と意気込んでいたということであろうか。ならばこちらもそのやる気に応えなければならない。そう思いながら甘味を頬張り腹ごしらえをした。
そんな中変わり種で、かなり印象的であったのが本の差し入れである。冒頭の男性客から俵万智の歌集『サラダ記念日』を頂いた。
新規客のネット指名90分、160センチ程の小柄な男性。やや頭髪が薄くなっており年齢は60才前後に見えた。グレーのポロシャツにスラックスを合わせた無難な、おじさんの優等生みたいなファッションの彼は丁寧な方だった。ベッドに腰掛け軽く談笑していると、
「これ、あなたに差し上げますね」
そう言って日焼けした俵万智の『サラダ記念日』を手渡された。表紙は日焼けし、かなり読み込まれていることが伺える。
反射でお礼を言ったものの、どうして彼はちんぽをしごかれに来たこの場で歌集を贈るなど情緒的なアプローチを仕掛けにきたのか。驚きを隠せなかった。もはやただ下半身的なことに興味があるのみではないのですよ、このような精神世界を愛する心もあるのですよ、というアピールに思えなんだか癪だった。
しかし残念なのは私の方で、彼がこの本を贈ったのは温かな心からであった。
「せっかく出会えたので仲良くなりたくて、プレゼントです」
親睦の証というわけである。私はひねた態度を恥じた。同時に、まだちょっとは疑っていた。私は読書好きだが、彼はそのことを知らないはずだ。この頃H Pや写メ日記に読書好きであることを載せていなかったからである。そうでなくても初対面で萎びた古本を贈る人間はなかなかいない。彼は変わり者らしい。
それでも偶然の本好きの一致は嬉しかった。また、歌集に馴染みのなかった私に『サラダ記念日』は新鮮で、少し心惹かれていた。彼は続ける。
「お気に入りの短歌に印をつけてあるんです」
「あなたもこの本を読んだら、同じようにお気に入りに印をつけてください」
「そして」
「もしまた会うことがあったらこの本を一緒に読み返しましょう」
お互いがどの短歌のどこに心惹かれたかを話し合おうというわけだ。え!?!? めちゃめちゃ面白そうじゃん。やります。やりますとも。掌を返してその提案を快く引き受けた。今度は心からの礼を言って本を受け取り、ローションや指サックが入った鞄にしまった。
後日、時間を見つけ言われた通り読んでみた。3Bの鉛筆を握りつつお気に入りにチェックマークをつけてみる。読み進めていくと、彼がつけたらしい印があった。赤い色鉛筆でお気に入りの短歌に点を打っている。
これがなんとも面白い。この印が彼の面影としてここにある。本は1人で読むものであるが、他者の存在がちらつくものだから一緒に読んでいるような感じがする。一気に読み終えてしまった。
「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする
私はこれがお気に入りだ。「おまえ」こと自分と「オレ」のあなた2人を、実に俯瞰的に捉えているように思う。向き合っている私とあなた。それを真上から見つめるもうひとりの私。そいつはぽかんとしている。喧嘩していたり、セックスしていたり、そんな時に幸せなんだけども、どうも当事者ではないみたい。そんな気もする。
目を閉じてジョッキに顔を埋める君我を見ず君何の渇きぞ
彼はこれがお気にいりらしい。目の前で酒の席を共にしている大切な人。相手はすっかり酔っ払っている。顔を沈め、意識も沈め、すっかり自分の世界に行ってしまったらしい。
私はこんな時、ひとりでいるより寂しい。そして相手が何だかいつもより大切に見える。そんな気分だ。彼はどんな思いでこの歌に目を留めたのだろう。
会うまでの時間たっぷり浴びたくて各駅停車で新宿に行く
これは2人でお気に入りである。待ち合わせに向かうまで。会えるんだ。嬉しいな。早く会いたいな。こんな気持ちや時間は愛しくて、宝物だ。だからあえてゆっくり行く。鏡を確認して前髪を整えたり化粧を直したりとか、本当にやってしまうものなんだな、なんて、しみじみ、そわそわ、にやにや。
おじさんはどうですか?
風俗客はラブホテルの一室に湧いて出てきたわけではないのだ。あの部屋の外にも彼の物語は存在している。あの日風俗を利用した一日も、それ以前の生活があって、部屋を出た後も続いて行く。彼は朝食に何を食べただろうか。帰りの電車では座れただろうか。端の席が空いて、そっと移動してみたりしただろうか。
そういった生活のひとつに『サラダ記念日』を読む瞬間があったのだ。そして心を動かされ、誰かと共有したいと思って持参した。彼の感動を、私は確かに受け取った。
その後、結局私たちは再び会うことはなかった。出会ってから2ヶ月ほど経った頃、私はお店を辞めてしまった。退職する前に彼から指名が入ることはなかったのである。(文 細畑)