太宰治、石川啄木、永井荷風…文豪たちもメロメロになった芸者遊びの魅力

借金、薬物、女遊び……。明治、昭和の文豪たちは、小説だけでなく暮らしぶりに注目されることが多く、エピソードに事欠きません。この記事では、文豪たちのかずかずの逸話の中から、女遊び、とりわけ「芸者遊び」について取り上げたいと思います。

そもそも芸者とは、昼はお稽古ごとに励み、夜はお座敷に出て料亭やお茶屋にておもてなしをする女性のこと。芸者のいる街を、花柳界(かりゅうかい)、または花街(かがい・はなまち)と言います。

明治の文豪――たとえば永井荷風、川端康成、谷崎潤一郎などの小説には、芸者が登場人物としてたびたび登場します。川端康成の『雪国』では、雪の降りしきる温泉町の芸妓・駒子との恋物語が描かれていますし、谷崎潤一郎の『刺青』で描かれるのは、彫り師の主人公と芸者見習いの若い娘です。現代では数が少なくなりましたが、昔は花街の数も芸者衆も多く、身近な存在だったのです。

芸者遊びは、特に明治時代、男性のステータスでもありました。政治家や軍人、有力者たちは芸者遊びをしたり、自分の贔屓の芸者を支援したりすることで、自分の甲斐性をアピールしたのです。明治の文豪たちにも、芸者遊びをしたというエピソードがいくつも残っています。今回は3人の作家を紹介します。

目次

 贔屓の芸者と遊郭を経営した永井荷風

1人目に紹介するのは、永井荷風(1879-1959)です。荷風の代表作は、「隅田川東岸の物語」を意味する『濹東綺譚』。戦前から1958年の売春防止法施行まで、向島花柳界の近辺に位置した赤線地帯、玉ノ井を舞台とし、小説家と娼婦の恋を描いた小説です。

荷風は耽美的な作風で知られていますが、実は、その創作は完全な想像ではないというのです。実際に目で見たり体験したりしないと書けないのだという荷風の、その実生活の様子はどのようなものだったのでしょうか。

ここで、そんな荷風の変態性がうかがえるエピソードをご紹介します。もともと女遊びの激しかった荷風。一時は良家の娘と結婚しましたが、女遊びをやめられず一年程で離婚。その後、贔屓の新橋芸者と再婚を果たしましたが、それも一年も続かなかったと言います。

その後、麹町の芸者・歌と馴染みになり、ふたりで遊郭を営みました。が、なんと、荷風は押し入れに穴をあけてお客の行為をのぞき見したというのです。自身がその行為に満足したら割引もおこなっていたとか……。

小説のためと言えば幾分か聞こえがいいですが、現代で小説家がそのようなことをしていたら炎上必至。悪趣味ですが、荷風はそうして自分の目で確かめないと筆を執らなかったそうです。のぞき見趣味があってこそリアリティーのある描写が実現したとすれば、読者としては肯定できませんが、なんだか批判もしづらいですね。

釧路の芸者と相思相愛?最後は上京を選んだ石川啄木

次にご紹介するのは、詩人・歌人の石川啄木(1886-1912)です。啄木は妻帯者でありながら、北海道釧路の芸者・小奴と恋に落ちます。啄木が23歳で小奴19歳。それまで贔屓にした芸者は数人いたようですが、年齢も性格も、小奴との相性が良かったのでしょう。愛人という関係を超えて、ふたりは相思相愛の仲だったと言われています。

その恋心は、短歌として石川啄木の歌集『一握の砂』の「忘れがたき人」に残っています。2首ほど見てみましょう。 

小奴(こやっこ)といひし女の

やはらかき

耳朶(みみたぼ)なども忘れがたかり

死にたくはないかと言へば

これ見よと

咽喉の痍(きず)を見せし女かな

小奴を詠んだとされる短歌は12首ほどあり、ふたりの仲の深さが察せられます。啄木は釧路新聞社の上司への不満と東京への憧れから、釧路を去ることになり、ふたりの関係もそこで終わりました(後日譚は詩人・童謡作家の野口雨情によって啄木の死後に書かれた『石川啄木と小奴』という文章で知ることができます)。

ふたりは別れる運命にありながらも、釧路でのひと時を長く共に過ごしていました。短歌にも描かれるほど、小奴との関係は啄木にとって大切なものだったとうかがえますが、近年、小奴の肉声テープが発見され、二人のイメージは少し変わりました。 

機会があったら奥さんこっちに呼んだほうがいいですよ。奥さんと友だちにしてもらって遊びによせてよ」と言ったら、啄木は「ああ、来てちょうだい」って。そんなふうだから「あなたのこと好きだとか嫌いだとかいう話はただのいっぺんもしたことない。私たちの仲はね。(小奴

 この肉声テープは、今までの「芸者・小奴は石川啄木の愛人である」という定説を覆す内容です。ただ、これだけでは、小奴の意図するところもわかりません。今となってはふたりの関係の真相はどのようなものか、このテープのみでは断定も否定もできないでしょう。

勘当されてまで芸者と一緒になった太宰治

最後にご紹介するのは、太宰治(1909-1948)です。太宰治は周知のとおり、大の芥川好きとして知られていますが、芸者遊びに傾倒したきっかけもまた、芥川でした。

1927年の夏、といえば察する方もいるかもしれません。この年は、芥川が睡眠薬を使い自殺した年です。その訃報を聞いた太宰は大変なショックを受け、喪失感を埋めるためか、芸者遊びに足を踏み入れることとなります。それまで学校では主席を取り続けるほどの優等生だったにもかかわらず、翌年には成績が落ちくぼむようになりました。

太宰が通ったのは、青森のお茶屋でした。太宰は高校生でしたが、当時高校生で芸者遊びをすることは良くあることだったそうです。そこで太宰は芸者・紅子(本名・小山初代)と馴染みになり、ふたりの仲は深まります。

太宰の実家はたいへんな大地主で、父は県議会議員でした。堅い家柄ゆえ、芸者と結婚するなど許されることではありません。そこで、長兄・文治が分家除籍、つまり事実上の勘当を条件に初代との結婚を認めると言いました。太宰は従い、実家を落籍します。

晴れてふたりは一緒になり、上京しましたが、太宰の心中未遂、精神科病棟入院と不安定な中で初代は不貞を犯し、後に離婚することとなります。

太宰はその後も心中を繰り返し、最後には女性と玉川入水を果たします。そんな波瀾万丈な人生の、小説の駆け出しの時期を内縁の妻として支えたのは、芸者あがりの初代だったのです。 

終わりに

このように、芸者遊びの経験が小説に反映されていたり、作家自身の人生に大きく関わっていたりと、文豪と芸者には深いかかわりがありました。時におかしく、時に真剣な遊びっぷりは、現代では考えられないものばかりです。呆れるようなエピソードから、切ない恋愛エピソードまで、その遊び方には作家の個性すら感じられるかもしれませんね。

ところで芸者遊びは、果たして醜聞なのでしょうか? 現代の恋愛感覚とは異なりますが、本気で芸者と遊んだ小説家たちは、格好悪いというよりも、むしろ潔く格好良いようにも感じられます。そんな彼らの事情を知った上であらためて彼らの小説を読むと、見え方が変わるかもしれませんね(文 千代永桜)。

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