古池や蛙飛び込む水の音
松尾芭蕉が書いたこの俳句は、日本人なら誰もが知っているだろう。俳句というのはそもそもすべてを事細かに説明しないことを美徳とする節があり、言い換えれば、その句の意味に関しては、読者の知識や想像力任せということになる。
古池という言葉から、人里離れ、青々とした木々に囲まれている小さな池を想像し、その池に蛙が飛び込む音が響き渡る。あたりは静寂に包まれている。このような情景を皆想像するのではないだろうか。
話は変わるがこの俳句は日本以外の国でも”Frog Poem”として親しまれている。しかしながら、この句の真意を理解できるような翻訳は大変少ないように思う。まずこの俳句を直訳すると、以下になる。
The old pond and the sound of water with frogs jumping in it
The old pondが「古い池」、sound of waterが「水の音」、frogs jumping in itが「蛙が飛び込む」である。
この直訳では筆者の真意は伝わらないだろう。まず、言葉の持つイメージに少々異なる部分がある。例えば、古池という言葉に対するイメージ。この句では、古池という言葉の持つ意味合いとして、「古い」を強調しようとしているのではなく、どちらかというと、「人が頻繁に訪れるわけではなく、少しさびれた静かな池」であろう。
そうなると、英訳としては”The old pond”ではなく”The quiet pond”の方が適切ではないだろうか。
このような違いがあるがゆえに、インターネット上には100を超える翻訳が転がっていた。ギリシャ生まれで日本国籍を取得し、和名として小泉八雲を名乗ったラフカディオ・ハーンはこの句をこのように翻訳している。
Old pond – frogs jumped in – sound of water.
この翻訳は俳句のリズム感をうまく表現しているように感じるが、本人が日本で長く暮らしていたため、彼自身は句の意味を理解しているが、翻訳に関してはやはり、読者任せの部分が多く感じられる。
筆者自身が句の真意を最も翻訳に反映していると感じたのはディオン・オドノル(Dion O Donnol)というアメリカの詩人による翻訳である。
The silent old pond
a mirror of ancient calm,
a frog-leaps-in splash.
この翻訳には上記で言及した古池の持つニュアンスをしっかりと反映されている。まず、最初の”The silent old pond”は「静かな古池」という意味であり「古池や」の持つ隠された意味の一部を映し出している。
さらに続く”a mirror of ancient calm”。これは「古代の静寂を映し出す鏡」という意味であり、「静かな忘れられた古池」というイメージを補う役割を果たしている。一見、これはディオンのオリジナルの様に見えるが、原文の意図を汲み取り、読者の想像を補うための大胆だが有効な一文である。
しかしこの翻訳でも、「水の音」の翻訳は不十分であるように感じる。そこに該当する翻訳は ”a frog-leaps-in splash”であり、訳すと「蛙が飛び込み跳ねる水しぶき」である。この文では、音に関する情報がなく、蛙が池に飛び込む「ぽちゃん」という音が静寂に響き渡るような雰囲気を感じとることはできないだろう。
筆者は今回、様々な翻訳を比較してみたが、完璧に満足できるものは見つからなかった。
俳句に関しては、日本語の持つ「含み」の多さという特性を存分に生かしたものであり、読者によって感じ方が異なるものであるため、完璧な翻訳というのは存在しないのかもしれない。
しかし、文学はどうだろうか。文学は俳句ほど読者任せではない。さらに俳句とは異なり、小説にはストーリーというものが存在している。それを楽しむためにはある程度正確な翻訳が必要となるだろう。
正確に言語を異なる言語に翻訳する際には直訳するのではなく、翻訳される単語の正確な意味や、ニュアンス、また、文化の違いなどを加味しなければならない。ここからは翻訳された日本文学と翻訳文を読み比べ、それらの違いについて考えていく。
『細雪』が『蒔岡姉妹』と訳される理由
谷崎潤一郎作の『細雪』を例にとってみよう。細雪は日本を代表する文学作品であり、その文体があまりにも「日本っぽい」ため、翻訳の難しさからも知られている。
この作品には英語版の多くで ”he Makioka Sisters”(蒔岡姉妹) というタイトルがついている。原文と翻訳版でタイトルが異なる理由は「そもそも細雪に該当する英単語がない」という点と「タイトルと内容の関連性が見えてこないから」だと筆者は考える。
まず細雪とは「細かに降る雪」や「まだらに降る雪」という意味があるという。それに該当する英単語はなく、強いて訳すとすれば “Small snowflakes (小さな雪のかけら)”や”Fine snow(ちいさな雪)”となるだろう。
加えて、細雪という言葉には雪が降っている、つまり動詞的側面もあり、そこも考えて英訳するとなると結構苦戦するし、長くなってしまってはタイトルとしてはあまりふさわしくない。
『細雪』というタイトルは登場人物である蒔岡家の四姉妹のうちの三女「雪子」からとったようだ。しかし、人名をそのまま翻訳して「Snow child Makioka」にするわけにはいかないため英語版の中でも名前は日本語のままローマ字で”Yukiko”である。
そうなると、読者が日本語を読むことが出来ない場合、雪子と細雪という言葉の関係性を汲み取ることが出来ない。そのためタイトルから内容を推測しやすくするために英語版ではタイトルが変更されているのだ。
会話で顕著に表れる日本語原文と英訳
内容や文章に関してはどうだろうか。日本語の一つの特徴として、英語に比べ非論理的という点が挙げられる。非論理的というのは言い換えれば、論理の飛躍であり、はっきりしない部分があるということだ。
例えばこの文章にその違いがはっきり表れている(今回はアメリカ人の日本人学者であり翻訳家のサイデンステッカーの翻訳を参考にする)。これは幸子とこいさんの会話の抜粋である。
「実はそのことで、難儀してるねん」
“I have rather problem”
「そのことて、何のこと」
“What is your problem”
「今、出かける前に、井谷さんに何とか電話で云うとかんならん」
“I have to telephone Itani before we leave”
「何で」
“Why?”
「あの人、昨日又やって来やはって、今日にも見合ひさせてほしい云やはるねんが」
“To give her an answer. She came yesterday and said she wanted Yukiko to meet the man today.”
この文章内で日本語版にはないが、英語版には足されている文がある。それが”To give her an answer” であり、直前の”Why?”に対する回答になっている。原文のほうでは「何で」というセリフに対する回答はなく、状況を説明することで、相手に回答を想像させようとしている。
しかし、英語の翻訳ではしっかりと「Why?」という質問に答える形で回答が用意されている。ここから日本語と英語の物事をどれくらいはっきり言うかに対して価値観の違いが表れているように考えられる。
さらに、その次の文でも日本語版では「見合い」という言葉しか使用されていないため、だれとだれの見合いであるかは、その会話文までの文章から察していく必要がある。しかし、英語版でははっきり雪子と書いてあり、井谷さんが男性を雪子に紹介するという状況をその一文で理解することが出来る。
「失礼ですが…」が英訳で省略されているのはなぜか?
次は文化的での違いを見ていこう。例えばこの文。
「さうでっしゃろなあ。失礼でございますけれど、相良さんはどちらにお住まひでいらっしゃいますか?」
(I should think not. And where do you live.)
この文章の翻訳において、先ほどとは逆に、英語では省かれている文がある。それは「失礼でございますけれども」という文である。
日本語と英語の比較研究の論文(※)によると、「英米人には相手にとってほんとうに失礼になるようなことをわざわざ断りを入れてから言うような習慣はないため、英語版の翻訳では省略されている」とのことだった。たしかに、英語には、このフレーズに該当する言葉は存在しない。
しかし、筆者はこれに関してはそれだけではないように思う。この、「失礼ですが」という文には相手への気遣いが表れている文にも感じる。日常生活で一番困る質問はいったいなんだろうか。筆者は悪意のない失礼な質問であると思う。相手に悪意があるのかないのかがわからない場合、対応の仕方に戸惑ってしまう。
もし、こちらが相手を邪険に扱い、相手に悪意がなかった場合、今後の関係性にひびが入ってしまう可能性がある。かといって、相手に悪意があった場合、黙っていても、自分が損を被るだけである。
だが、失礼ですがという言葉でワンクッション置くことで、相手にとって答えにくいもの、不快な内容であったとしても、質問に悪意がないと理解し、対応することが出来る。加えて、失礼に感じるポイントというのは個人差がある。
しかし、この言葉を念のため挟むことによって、相手にかかわらず、不快な思いを減らす予防線にもなるであろう。そういう意味で個人を尊重した謙虚な特性だと感じる。
このように、普段日本で生活しているうえではあまり感じることのできない、細かな言葉の違い、文化の違いに日本文学の原文と翻訳を見比べることで浮き彫りにすることが出来る。もしも、興味があればぜひ自分の好きな作品の原文と翻訳版を読み比べてほしい。新たな発見があるかもしれない。(文 倫)
※高島敦子:『細雪』、『雪国』を通して見た、日本語と英語の比較研究
https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD90020359/Body/link/y25u0049_070.pdf