赤貝は「甘くて美味い」、親は「自分を生んだ人」…日本初の辞書は作者の主張が強かった

突然だが自慢させてほしい。筆者の宝物「言海(げんかい)」である。日本初の近代的国語辞典。初版の発行は1889(明治22)年。筆者が持っているものは1925(大正14)年に発行されたものである。この時点で第471版なのだが、一体今は何刷りなのだろうか……。いずれにせよ、それだけ手に取られてきたということである。

 

現在も文庫サイズのものが発行されているが、どうしてもこの青い装丁の縮刷版が欲しくて、状態の良いものをネットオークションで探し回り、ようやく手に入れた。

 

そもそも何故「言海」が欲しかったかというと、三浦しをんの小説『舟を編む』を読んだことがきっかけである。辞書編集部を舞台に、一つの辞書を作り上げる様を描いたこの作品の中に、「辞書の始まり」のような存在として「言海」が登場する。広大な言葉の海へ漕ぎ出した偉大な先達。それに続けと、主人公たちは辞書を編んでゆく。

 

作中では何人もの人が関わり、膨大な時間をかけて辞書を作っていた。だが「言海」は、大槻文彦という一人の男が作ったものなのである。日本で初めての辞書とはどんなものなのだろう、という好奇心と同時に、一人によって編まれたのだということに興味を持ち、入手するに至った。

「言海」と『舟を編む』。これを並べたくて縮刷版を探していたのである。

 

「言海」は辞書であるにも関わらず、説明書きには大槻の主観が見え隠れするところがある。辞書に対する感想としては少し変かもしれないが、何とも読み応えのある書物であると思った。調べ物の道具だとばかり思っていた辞書で、まさか一人の男の人間性を垣間見ることになるとは。

 

ここからは「言海」の面白さが窺えるような見出しをいくつか紹介していこうと思う。少しだけ言葉の海に漕ぎ出してみよう。

あか-がひ【赤貝】

介(かい)ノ名、形、はまぐりに似テ圓(まる)ク深シ、大ナルハ三四寸ニ至ル、殻ノ表ニ縦道アリテ微毛アリ、色黒シ、殻ノ裏側ノ肉ハ紫赤ナリ。肉甘ク旨シ。

「言海」には多くの食べ物の見出しが掲載されている。基本的には大きさや取れる場所、たまに調理法が説明として書いてあるくらいなのだが、赤貝の説明文の最後には「肉甘ク旨シ」と書かれている。大槻は赤貝が好物であったのだろうか。

 

他にも味の感想が添えられた見出しがいくつか見受けられる。「いし-がれひ【石鰈】」なんかには「味、殊(こと)ニ美ナリ」とまで書かれている。辞書から作り手の好みが窺えて面白い。

 

うざ-うざ

蚯蚓(みみず)ナド、小蟲(こむし)ノ集リテ蠢(うごめ)ク状ヲイフ語。

「言海」にはいわゆるオノマトペも多く収録されている。「ぐだぐだ」とか、明治時代の人も言ってたんだなぁと思うと面白いものがあるが、「うざうざ」は聞いたことがなかった。「小蟲ノ集リテ蠢ク状ヲイフ語」らしい。

 

確かにその様は「うごうご」より「うざうざ」の方がしっくりくるような気がする。

 

えき【駅】

ウマヤ。宿場。

時代背景を考えれば今のような電車等が停まる駅を指す言葉ではないことは理解できるが、このようにさも当然のように書かれていると少し面白い。

 

ちなみに、現在の「駅」に近い「蒸気車ヲ停メテ発着セシムル所」として「ステエシヨン」という言葉が収録されていた。当時はこうして使い分けていたことが窺える。

 

おや【親】

我ヲ生ミタル人。

辞書の説明において主語が「自分」になっているところが面白いと思った。

 

カステイラ

 麪粉(うどんこ)ニ、鷄卵、砂糖ヲ和(わ)シテ、鍋ニテ、蒸燒(むしやき)ニシタルモノ、菓子トス、海綿(うみわた)ノ状ノ如クニシテ黄ナリ。

「言海」に収録されている外来語で最も多いのが、「カステイラ」に代表されるようなオランダ語である。鎖国下にあっても交流のあった国であり、当時の日本にとって最も身近な外国だったことが窺える。現在の辞書では見ることのない現象だ。

 

また、「ウニウ(オットセイ)」といったアイヌ語や「グスク(城)」等の琉球語の収録も多い。この二つの地も、当時の人々にとってはオランダと同じような感覚の地であったのかもしれない。

 

かつぱ【河童】

水陸兩棲(りょうせい)ノ動物ニテ、形、三四歳ノ童ノ如ク、面、虎ニ似テ、身ニ鱗甲(りんこう)アリ、九州ノ山中ノ溪流ニ多シト云、詳ナラズ。

説明には「九州ノ山中ノ深流ニ多シト云」と書かれている。河童が有名なのは岩手の遠野では? と思ったのだが、もしかしたら「河童=遠野」というイメージは柳田國男の『遠野物語』に引っ張られているものなのかもしれない。ちなみに「言海」の完成は明治19年、『遠野物語』の発表は明治43年である。

 

か-ぶ-き【歌舞伎】

慶長(けいちょう)中、出雲ノ巫女カンナギ、くにトイフモノ、神樂(かぐら)ヲ變(へん)ジ、白拍子ニナゾラヘ、新ニ作リ初メタリトイフ舞曲ノ名、後、名古屋三左衞門トイフ者ト共ニ、遍(ひろ)クコレヲ弘(ひろ)ム、其曲、後ニハ泛(ひろく)古今種種ノ事ヲ演シ、芝居トモ稱(しょう)シテ、今ニ至ルマデ、盛ニ世ニ行ハル。

説明の最後に「今ニ至ルマデ、盛ニ世ニ行ハル」と添えられている。事実ではあるが、非常に主観的な一文だ。これが掲載されるのがこの辞書の面白いところであり、当時の空気を感じるための重要なエッセンスである。

 

くひ-たふ-す【食倒】

食ヒテ償(つぐな)ヒヲ爲(ため)セズ。食ヒテ他ニ損ヲ掛ク。

何だかとてもしっくりくる書き方だと思ったし、この時代から食い道楽というのは変わらずされていたのだなぁと想像することもできる。大槻も食い倒れた経験があったのかもしれない。

 

そら【空】

1 天地ノ間。虚空。 2 トキ。ヲリ。時節。 3 差ス方。差掛ル場合。4 取リトメヌ事。イタヅラナル事。ウハノソラ。5 スベテ其(もと)實(み)ナキ事。 6 心ノ推シ量リノミナル事。 7 イツハリ。ウソ。

今であっても「空」を説明しろと言われると非常に難しいが、大槻は「天地ノ間」と書いている。天と空、同じものとして考えがちであるが、そこを別のものとして、天をさらに高くにあるものとして捉えている大槻の感覚を興味深いと感じた。

 

ねこ【猫】

古ク、ネコマ。人家ニ畜フ小キ獸、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能(よ)ク鼠ヲ捕フレバ畜(たくわ)フ、然レドモ、竊盜(せっとう)ノ性アリ、形、虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黑、黄、駁(ばく)等種種ナリ、其睛(そのひとみ)、朝ハ圓(まる)ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復(ま)タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰處(いんしょ)ニテハ常ニ圓シ。

「言海」に動物の見出しは数あれど、最も詳しく、最も私情を挟んでいると思われるのがこの「猫」である。「温柔ニシテ馴レ易ク」「睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル」などの一般的な生態についてはまだ良いとして、「朝ハ圓ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ」とまで辞書に書くのはどうだろうか。大槻が猫派であったことは明白である。

 

パン【麪包】

小麥粉ニ甘酒ヲ加ヘ、水ニ捏(こ)ネ合ハセテ、蒸燒キニシタルモノ、饅頭ノ皮ヲ製スルガ如シ、西洋人、常食トス。アンナシマンヂュウ。

当時まだまだ珍しいのものであった「パン」。大槻はそれを「アンナシマンヂュウ(餡無しまんじゅう)」と表現している。少し違うような気がする。

 


 

本当に一部であるが、いくつか見出し語を抜き出して紹介した。いかがだっただろうか。普通に現代の辞書を使っていてはなかなか感じることのない面白さが少しでも伝わっていれば本望である。

 

また、当然ながら「言海」には現在の辞書に載っていないような言葉が載っていたり、現在の辞書に当たり前に掲載されている言葉が見当たらなかったりする。こういったところから時代の流れを感じてみるのも面白いだろう。

 

明治の時代に一人の男によって編まれた辞書は、今でもずっと言葉の海を泳いでいる。あなたも辞書を読むことで、自分だけの海に漕ぎ出してみてはどうだろうか。(文 サトウエイ)

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