道徳をあえてぶっ壊す?フランス文学と日本の漫画から見るアンチモラル

「モラリスト」とは直訳すると「道徳的な人」のことで、主にフランスの思想家を指す。ところがフランス文学では、性描写においてモラルを冒涜するものが好まれているように感じる。同じ国なのに、だ。

そういったアンチモラル作品では、物語のなかで登場人物が、他社から軽蔑されるような行為をあえてし、自分や読者の興奮をあおっているように見える。具体的に3作を紹介していく。

目次

『眼球譚』ジョルジュ・バタイユ

『目玉の話』と題される訳が存在することからもうかがえるように、目玉、玉子、睾丸など「球体への異様な嗜好を持つ少年少女の変態行為」が描かれた作品である。ミルクを注いだ皿に尻を浸す、自慰を見せ合う、小便を掛け合う、尻で玉子を割る、玉子を便器のなかに放り込み小便をする……など。

さらには目玉を吸う、死体の隣で交わる、死体に放尿する、牛の睾丸を食する、司祭に聖杯へ放尿させて飲ませる、死体の目玉をくり抜いて尻へ入れるなど、奇行の数々にはことごとくアンチモラルが充満している。

『ソドム百二十日』マルキ・ド・サド

悪虐の限りを尽くして金持ちになった放蕩者4人が、国じゅうからさらってきた男女42名を城館に集め、120日間にわたる大狂宴をひらく。男色、スカトロ、近親相姦、獣姦、屍姦、小児愛。おびただしいほどの性描写・拷問描写には、サドの快楽主義者としての思想が確かに脈打っている。

『悪の華』ボードレール

ボードレール唯一の韻文詩集。前述のような発散的な作品に比して内省的な要素が強いが、それでもやはり退廃・官能を帯びている。

当初は『冥府』と題されるはずだった本作は、なるほど確かにどことなく死臭をまとっており、『われらが心を占めるのは、われらが肉を苛(さいな)むは、/暗愚(あんぐ)と、過誤(かご)と、罪と吝嗇(りんしょく)、/乞食が虱(しらみ)を飼うように/だからわれらは飼いならす、忘れがたない悔恨を』と筆を起こすように、ボードレール自身の苦悩や倦怠が深く滲んでいる。


今回挙げたフランス文学には、作者の出生や時代背景が色濃く反映されている。全盲の父の世話をしつづけ”眼球の父”となったバタイユ、性的醜聞を背負い人生の三分の一以上を監獄で過ごしたサド、遺産を浪費し放蕩のすえ死んだボードレール。書くことが彼らの防衛機制だったのかもしれない。

しかし彼らの熱量に対して、エロティシズムに対する視点は無機質であるようにも感じられる。読者を食傷させないための試みでもあるのか、肉体を物質として捉え、エロティシズムにおいていかに機能しうるかを絶えず検討していたからだろうか。

美醜のコントラストが強いほど、エロティシズムも熱烈になることを心得ており、執拗なまでに汚すことも彼らの真摯な反逆なのか、エロティシズムの些細な歯車に過ぎないのかはかりかねてしまう。

このような精神性は他国の文化においても多々みられるが、とりわけ多様性の潮流に乗る現代日本に通底する部分は大きい。特に顕著に反映されているのが、現代の漫画である。4作を紹介する。

『嫌がってるキミが好き』鬼山瑞樹

女友達に自慢できそう、という理由だけで、存在すら知らなかった同級生の大槻まことの告白を受けてしまった白川みことは、彼の異常な性癖に翻弄されるようになる。まことは、タイトル通りみことの「嫌がってる」顔を渇望していた。

普通の恋人関係を夢見ていたみことは、失禁させられたり、「来世はみことちゃんの胎盤で胎児として生まれたい…ママ」という極めて気持ちの悪い発言を受けたりして彼を嫌悪するようになったが、徐々にそれを受け入れつつある自分に戸惑うようになる。

『可愛そうにね、元気くん』古宮海

男子高校生である廣田元気は、恋する八千緑七子が頻繁に負傷するさまに興奮をおぼえ、彼女をモデルに凌辱漫画を描いていた。しかしクラスのマドンナである鷲沢守にその漫画の存在がバレてしまい、元気はいつしか「八千緑に対する加虐性愛」と「鷲沢に対する嗜虐性愛」の間でもがき苦しむようになる。

『惡の華』押見修造

先ほど列挙したようなフランス文学などを好む偏屈な文学少年・春日高男は、思いを寄せる佐伯奈々子の体操着を盗むところを、つまはじき者の仲村佐和に目撃されたことで、彼女の下僕として生活することを強いられる。

春日は私服の下に盗んだ佐伯の体操着を着た状態で、佐伯とデートさせられるなどの命令に従ううちに、次第に仲村に支配されることに悦びを感じるようになり、自ら奇行に及ぶようになる。田舎の閉塞感やティーン特有の倦怠や焦燥感の漂う作品。

『女子高生に殺されたい』古屋兎丸

“オートアサシノフィリア”という、自分が殺されることに興奮をおぼえる性癖をもつ東山春人は、女子高生に殺されたい願望から高校教師になる。多重人格であり凶暴な一面を有した女生徒、佐々木真帆ならば自分を殺してくれるかもしれないと思い至り、彼女に近づくように。ガロ系作家を思わせるような画風や独特のアングラな雰囲気をもつ作品。


現代日本において、異常性癖は恋愛や愛情の文脈におかれることが多いように思う。フランス文学のように不特定多数との行為を楽しむものではなく、一対一の関係のなかで互いの人格に向き合い、自己矛盾に苦しみながらも”アンチモラル”はいたって個人的なものとして処理される。

恋人関係における愛を”代替不可能性”と定義するならば、以上のような性癖の数々は、それを確固たるものにするスパイスに過ぎないのかもしれない。

終わりに

アンチモラル作品を挙げて仏文学と現代日本漫画を比較したが、両者の筆が背負うものは似て非なるものであった。フランス文学は「表現の不自由」が始点であるのに対し、現代日本は「表現の自由」を始点としている。フランス文学が”背徳”に価値をおいているのだとしたら、現代日本の抱える性癖はいわば”背徳の共有”なのではないか。

美、エロチシズム、死という図式はつまり絶対者の秩序の中にしかエロチシズムは見い出されない、という思想なんです。ヨーロッパなら、カトリシズムの世界にしかエロチシズムは存在しないんです。

あそこには厳格な戒律があって、そのオキテを破れば罪になる。罪を犯した者は、いやでも神に直面せざるを得ない。エロチシズムというものは、そういう過程をたどって裏側から神に達することなんです。(『バタイユ入門』酒井健より)

三島由紀夫の言葉を借りると、我々は自由を手に入れる代わりに”絶対者の秩序”を失ったのである。『正しさ』が否定されるようになった世界、もとい神の死んだ世界においては、自ら偶像を創り上げてアンチテーゼを講じることでしか、自身の立っている場所を表す術がない。その架空の敵を共に瞳に映してくれる存在こそが、”背徳の共有”者なのではなかろうか。

我々はアンチモラルという性癖を介して神を探している。そして同じ神をもつ人間を介して自分を探しているのである。筆者にはそのように思えてならない。(文 カルハトモシキ)

 

 

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