【受賞作発表】第一回 お酒にまつわるエッセイ大賞

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【大賞】waste & wit(はなさかたみお)

 

どうでもいい話だが、個人的には酒場の魅力の一つは有意義でムダな時間だと思っている。おそらくその場でしか意味を為さないものなのに、強烈なアハ体験に遭うというか、脳みそが震えるような衝撃が訪れることがたまにある。

 

タモリ倶楽部的な偏執的な趣味の話だったり、四つの派閥が世界経済を支配しているという陰謀論だったり、平家はペルシャ人説などのマユツバな歴史譚も盛り上がる話題だが、いまだに思い返しては笑ってしまうネタに“たまご料理で野球の打順を考える”がある。

 

15年ほど前、京都・木屋町の“アジアとドイツ料理”がウリの店で呑んでいたときに、ふとそんな話題になった。

 

「1番は生たまごやな。足はやいし」

「いやいや、生たまごは料理ちゃうやん」

「ほなら、たまごかけご飯か」

「酒呑みに最初からご飯は重たいな」

「海原雄山は花に溜まった水も立派な料理や言うてたし、生たまごも立派な料理やって」

「いやいやいや」

 

そんなショウモナイ言葉を交わしながら男4人で熱く議論していた。結局1番は登場頻度が高いということで目玉焼きになった。「ソースかしょう油かって小技がきくあたりも1番ぽいやん」そんな意見もあった。

 

2番は繋ぎであり、軽やかさもあるというので、スクランブルエッグに。3番は機動力もあり、打力もあるというので、茹でたまご。4番は「巨人、大鵬、たまご焼き」という流行語から、たまご焼き。5番は「そろそろ外国人助っ人みたいなんが欲しいな」「しかも重量感があるやつ」そんな会話が出て、スコッチエッグが採用された。

 

上位はそんな感じで決まったのだが、下位打線はなかなか難しかった。存在感の薄いたまご料理となると思い浮かばないのである。

 

薄焼きたまご、錦糸たまご、炒りたまご、たまご豆腐、スペインオムレツ、茶碗蒸し、黄身の味噌漬け――それぞれが思いつく料理名を挙げて屁理屈を捏ねて、結果7番はたまご豆腐(滋味ながらハズさないという理由で)、8番は炒りたまご(安定した添え物感)、9番は錦糸たまご(マウンド上の投手的な華やかさがある)になった。ちなみにスペインオムレツは代打の切り札である。

 

酒を呑みながら、一つ一つが決まるたびに我々は歓喜の声を発したが、問題は6番だった。

 

「やっぱ、意外性が欲しいやんなぁ」

「せやねん。しかも、燻し銀な感じやろ」

 

酔いのせいで思考力が低下し、言葉が少なくなっていくなか、ふと誰かが呟いた。

 

「くんたま」

 

皆の顔に驚きの表情が浮かんだ。

 

「燻製たまごかぁ。まさに燻し銀やなぁ」

 

我々は眼前の難問に対し、最適な回答を提示できたことに興奮した。5分ほど互いのファインプレイを讃え、勝利に乾杯した。だが、5分もすると何事もなかったように別の話題になった。

 

月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり(『おくのほそ道(松尾芭蕉)』より)

 

一期一会の妙味とでも云うのだろうか、酒場で過ぎゆく有意義でムダな時間をまた楽しみたい。

 

 

【優秀賞】ハイボールの思い出(健康)

 

ブラックな職場に勤めていた。常軌を逸するほど仕事が忙しく、週3日は会社に寝泊まりしていたし、1つでもミスがあると、パワハラ上司に人格が原型をとどめないレベルで追い詰められた。

 

さらに、定期的に脱走する人が出る。当然やりかけの仕事はほったらかし。チームリーダーだった私は、その度に尻拭いをすることになる。そしてミスが一つでも起ころうものなら”処罰”が待っている。

 

自炊する余裕なんてあるはずもなくて、食事はいつも近所の飲み屋だった。店員さんはいつも温かくもてなしてくれたし、愚痴ばかり吐いても黙って聞いてくれた。会社を離れて一杯飲む時間だけが日々の救いだった。

 

ある日、仕事でミスをした。それまでは結果論的なミスは気にならなかった。自分の能力にはそれなりに自信があったし、物事には限界がある。でも今回は完全に自分の手落ちだった。顧客に迷惑をかけ、信頼を失った。何より自分が信用できなくなり、心が折れた。

 

眠りについて目覚めなければいいのに、電車に飛び込んでしまおうか、とか破滅的な考えが頭を巡る中、いつもの店に入った。味もわからないまま酒を飲み飯を食い、考えるでもなく頭を悩ませていた時、隣の席の中年の男が話しかけてきた。

 

「大丈夫か?」

 

外からも異常に見えるほどなんだなと、惨めな気持ちが増したが、見ず知らずの男に身の上を打ち明けている自分がいた。ひとしきり話を聞いた後、男はカウンター越しに「ママ、あれ出してよ」と言った。ママが持ってきたボトルは「白州」の21年だった。

 

「こんなもんは、ソーダ割りよ」

 

そう言って白州をグラスに入れ、静かに炭酸水を注いでから割り箸の尻側でそっと液体を混ぜて差し出してきた。キンミヤの水割りを入れるような安物のコップに入った液体をじっと見つめて、飲んだ。泣けるぐらい優しくて、めちゃくちゃ美味いハイボールだった。

 

「そういう時は、いい酒を飲むんだよ」

 

白州の香りが、味が、炭酸が、自分を満たしていた。不安も悩みも入り込む余地がないほどに体も脳も余韻を貪っていて、酒を、喜びを、生を欲していた。心の底から生きていることへの感謝が湧いてきて、涙が流れた。なにくそ、負けるもんか。早く見返してやりたい。明日が待ち遠しいと思った。隣を見ると、男は手酌で瓶ビールをうまそうに飲んでいた。

 

後日職場では、上司のハラスメントがお偉いさんの目に止まり、大改革が断行され、ホワイトな環境に一変した。おかげさまで、私は今も同じ職場で平和に仕事に励んでいる。今の自分があるのは、見ず知らずのおっさんの優しさと、1杯のハイボールだった。

 

時々お世話になっている、とある名店にはこんな詩が掲示されている。

 

居酒屋は 一夜一時の ホスピタル

 

酒場は人を救っている。決して居酒屋が不要不急なものではないと断言する。感染症に打ち勝った暁にはまた笑い合える日が来る。ガンバレ、みんな。そう呟きながら、今日も1人酒を飲んでいる。

 

 

【優秀賞】海の酔い、オカの酔い。克服できないオカの酔い(周防平民珍山)

 

仕事でフネに乗るようになって、20年近くが経つ。一番小さなものは100トンちょうどの、タライを海に浮かべたようなフネから、現在乗っている2000トン近い外洋船まで、いろんなフネに乗った。

 

フネに乗るとまず困らされるのは、船酔い。弱い人はフネがモヤイを放し、ほんの少し沖に出ただけでゲーゲーやりだす。私は先祖代々フナノリの一家であるため、一般人よりは多少耐性があったのだが、若いころにはコイツに悩まされた。

 

しかしあるとき、完全に克服した。きっかけは、海上自衛隊の「船酔い克服必勝法」を斜め読みしたこと。気持ち悪い話で恐縮であるが、実態を余すところなく伝えるため、伏字なく正確に伝えたい。

 

海自の方々は、船酔いに堪えられなくなった時、自分が被っている帽子に吐く。そして間髪入れず、ソイツを飲み込む! これで二度と船酔いをしないというのだ。今から10数年前、のっぴきならない船酔いに苦しんだ私は、もうろうとした意識のなか、これを試した。効果は覿面すぎるほどで、船酔いは瞬時に消失した。以後、私は船酔いをしていない。

 

しかし、23歳の時に覚えた酒による「酔い」には、残念ながら特効薬がない。

 

酒の「酔い」への渇望は、着岸とともに猛烈にアタマをもたげだす。着岸してから、上陸許可がかかるまでの雑用時間……燃料を搭載したり、掃除をしたりといったときに頭をもたげるのはただひたすら、酒、酒、酒、そしておいしいおつまみのことばかり。我ながらあさましいと思うが、押さえようがない。

 

そうこうしているうちに、待ちに待った上陸許可がおりる。母港である石垣島は夜が遅いため、一軒目に繰り込むころ、外はまだ薄明るい。

 

1杯目の生中は、無事な入港にカンパイ。ちょっと酸味の効いたオリオンビールが、乾いた体によく染みる。2杯目は自由になったわが身にカンパイ、3杯目はなんだかよくわからんがカンパイ!

 

おつまみはマグロの胃袋炒め、カツオの塩辛を島豆腐にのっけたワタガラス豆腐など。ちなみにカツオをアイゴの稚魚の塩辛に変えると、スクガラス豆腐になる。冬にはてびち(豚の足)を出汁・具材として使用する八重山おでん、幻と言われる西表島産イノシシの鉄板焼きなども味わえる。

 

4杯目からはシマ(泡盛の現地呼称)。お気に入りは地元トップブランドの「請福」。クセのない味が、ついついおかわりを呼ぶ。シメには、財布にかなり気合を入れて「泡波」。コイツは波照間島産のもので、生産本数が少ないため、波照間島以外では、高級洋酒並みの価格で取引されるイッピン。グラスが980円。理科の実験でもやらなかったような真剣な手つきで、1滴もこぼさないように呑む。

 

船酔いは、フネが岸壁を離れると罹患し、岸壁に着くとケロリと治ってしまう。酒酔いはその逆で、フネが岸壁を離れるとスコンと治り、岸壁に着くと途端にアタマをもたげる。どっちもどっちだが、私はいまだに、酒酔いの根治方法を知らない。

 

 

【優秀賞】肴(カネタ)

 

桝の隅に盛った塩を舐めながら酒を味わうといった通ではなかった。近所の魚屋から香典が届いたほどの人である。父はとにかく肴にうるさかった。

 

烏賊(いか)の雲丹(うに)和え、蛍烏賊の酢味噌、鰹のたたき、大浅利(おおあさり)の酒蒸し、蝦蛄(しゃこ)の茹でたて……鳥肉なら新鮮なささ身を霜降りにしてわさび醤油で。豚肉なら三枚肉を葱と串に刺して塩・胡椒で。たいして現金収入のあるはずもない稼業ながら、晩酌の膳にはちゃぶ台いっぱいの皿が並んだものだ。

 

就職して最初の飲み会が焼鳥屋だった。家風とは恐ろしいもので、つい反射的に言ってしまった。

 

「砂肝、塩でお願いします」

 

居合わせた上司がみな蟒蛇(うわばみ)でも見るような顔をした。子どもの頃から海鼠腸(このわた)を食べてましたとでも言ったら火星人扱いされただろう。

 

そんな家に嫁いできた母の気苦労は、娘の私から見ても尋常ではなかった。例えば父と一緒に旅行するときには、ワンカップ大関と柿の種持参で三歩後ろを付いて歩き、駅のkioskで竹輪やら蛸の燻製など買い足すのである。

 

その母が先に逝ってしまった。まもなく父の飲酒にようやくドクターストップがかかった。白血病を宣告されたのだ。輸血の度に詳細な血液検査のデータが出る。肝機能の数値は毎回全くの正常値だった。

 

最期の十日間は緩和ケア病棟でお世話になった。私は大吟醸の一升瓶とこだわりの海老煎餅を病室に持ち込んだ。父は海老煎餅一枚でコップに一勺ほどの酒をおいしそうに呑んだ。次の日は吸い飲みで呑んだ。その次の日はスポンジで呑んだ。

 

出棺の前、兄が父の体に呑み残しの大吟醸を注いだ。「俺のときはワインにしてくれ」と。

 

 

【優秀賞】酒好き女は『普段酒偏差値』の高い男を求める(たべあずちゃん)

 

「今、わたし30歳なんです」

 

夜の店、妙齢キャストの女が発する重みのあるこの言葉が、特別に価値を持つ瞬間がある。それまでふざけて会話していた30代前半の客の男が、真剣に口説き始める瞬間だ。

 

「じゃあ、僕とちょうどいいですね」

 

それまでスケベ丸出しだった男が急に真面目な顔をしてパーソナルデータを話し始める顔を見るのはなかなか気分が良いもので、結婚しなきゃと思いながら機会を逃していた30歳の私は、まだまだ婚活需要があるものだと妙な優越感を噛み締めていた。

 

そんな男たちの中でも、銀座のラウンジで作家のキープボトルのハーパーを飲みながら「また一緒に飲みたいです」とやんわりと言う、穏やかそうな大手出版社編集の男は優良物件に思え、積極的に連絡を取り続け、無事に交際にこぎ着けた。

 

私が男を選ぶ上で絶対に譲れない条件がある。「美味い酒を飲むことに注力を注ぐ男」かどうか。男が酒を飲む理由で「お付き合い」はそれなりの幅を占めるだろう。

 

では、「自分一人で飲む酒」には、何を選ぶのか。美味しい酒を飲むことに労力を割く人間かどうか、ハッキリ分かれるところだろう。『美味しんぼ』の「その人がふだん食べている物を見ればその人がわかる」と言う台詞、酒飲みの私としては「その人がふだん飲んでいる酒を見ればその人がわかる」の方がしっくりくる。

 

編集者のその男は、家にサッポロラガーの復刻版ビールを取り寄せていた。しっかりと麦の味が効いて香り高いサッポロラガーは様々な食事に合い、かつ復刻版のパッケージは食卓を華やげてくれた。

 

「美味しいものを、普段からいただくのは大事だよ」

 

多忙な彼との深夜のお家デートを楽しみながら「この『普段酒偏差値』にうっかりやられてしまうんだな」、そう思っていた。誰のためでもなく、自分が飲むための酒をこだわれる。豊かで文化リテラシーが高い男、こいつとの結婚しか勝たん、それくらいには考えていた。

 

そんな「普段酒偏差値」の高かった男は、些細なきっかけで喧嘩が勃発、うっかり別れる運びとなってしまった。私は優良な結婚見込み先を逃した悔しさから、編集者の集まるゴールデン街に通いつめるようになった。多くの編集者の男性と知り合い、「美味い酒をいかに飲むか?」で話が盛り上がる夜が幾度もあった。「何だ、他にいくらでもいるじゃん」。

 

美味い酒の話は楽しい。美味い酒の話ができる男は好きだ。結婚するなら一緒に家で美味い酒を飲める男でしかありえない。彼を好きになったのは必然だった。でも、それができそうな男はいくらでもいる。代替可能だと結論が出た。それを友達に話すと「1人相対化するごとに婚期5年延びる」と言われた。

 

美味い酒を飲むことに注力を注ぐ男、を探すことに注力しすぎている私。酒は好きだが酒が好きな男はもっと好き。どうやらあと5年は結婚できないらしい。

 

 

【優秀賞】No bar,no life(白井千珠子)

 

2001年4月5日にBarを始めた。お酒の知識もなく、コンセプトもなく。32歳になったばかりで、Barを始める以前は海外に遊びに行くついでに流行りそうな品物を買付、大阪のアメリカ村で店を構えて売っていた。長くは続かなかったので、このbarも3年続けば良い方だと、私を知る誰もが思っていたし、私もそんな感じだった。

 

適当な性格から、お店のシステムも「お好きなお酒をご用意しますので、それをキープして下さい。なければお店にあるものを」てな感じ。だけど意外や意外、そのシステムがウケたのだ。そうこうしているうちに壁面の棚は、あらゆる種類のウイスキーで飾られた。

 

オープンしてから2年が過ぎたある夜、珍しく若い男の子が入ってきた。名前はシュウ。彼はその日から開店の20時と同時に毎晩やって来た。きっかり1時間だけ。

 

カウンターだけの小さな店だったので、お客さん同士で語り合うなか、シュウは誰とも話さなかった。私以外とは。パソコンを持ってきては、好きな映像を見ながら生ビールを飲んでいた。21時前になると慌てて帰る、毎晩、毎晩。

 

シュウはういていた。見かけは立派な大人たちの中で。私が他のお客さんと話をしていると、大声で「ちーちゃん! ちーちゃん!」と私を呼ぶので、頭にきた響17年のお客さんがシュウを注意したら、拍手がおきた。

 

シュウは英語でさらに大声で喚いた。また響が怒鳴った。「お前日本人なら日本語で話せ!」それを聞いていたアードベッグ17年が「何人であろうと何語でもいいやろ!」と言い放ったのだ。もっと拍手がわいた。その日からシュウはアードベッグになついた。

 

アードベッグはシュウにお酒の飲み方を教えた。シュウがお店に来てから2ヶ月が過ぎた頃、シュウがアードベッグに身分証を見せ、「今日でお別れです」と告げた。

 

その日から1年が経った頃、1枚のポストカードが店に届いた。差出人はシュウ。

 

『ちーちゃんお久しぶりです。僕はあの時、ちーちゃんのお店に助けてもらいました。新卒、社会人になりたての春、研修先の寮の近くにあったお店に駆け込んだのが出会いでした。僕は4人部屋の同期の奴らから、暴力と金銭の盗みなど、酷いいじめにあってました。21時の門限ギリギリまで、たとえ1時間でも、僕の居場所があったから、あの辛い時期を乗り越えれました。生きることにしたのでした。ありがとう』

 

当時シュウが僕の女神と語っていた、オードリーヘップバーンのポストカードで。それからまた1年が過ぎた頃、ひとりのスーツ姿の男性が店にやって来た。少し大人びたシュウだった。遠い赴任先から会いに来てくれた。

 

あの日から、私の意識が変わった。お酒だけを売るのがBarじゃないんだ。2020年沢山の大人が閉店に泣いてくれた。知らぬ間に、お店は人格を持ち、私を超えていたのだ。コロナ明け、終のBar探しに行こう! カウンターの向こう側へ!

 

 

【優秀賞】20歳、祝えど嗜めど(望月)

 

父は愛した。母は憎んだ。私にとってのお酒はどんなものになるのか、期待と不安で胸をいっぱいにし二十歳になった。

 

早生まれの私を置いて、皆大人になっていった。お酒の種類を覚える度に、人生を知ったような口を利いて。それが羨ましくて疎ましくて、私は誕生日に誰よりもいい酒を飲もうと思った。

 

そして20歳になったその日、両親から日本酒をもらった。ここに生まれたことを誇りたくなる、芳醇で甘美な味がした。香りは鼻先でほどけて、舌には未知の清涼感。夜中に煮詰めたジャムの味見を思い出した。鼓動の速さは酔いによるものだけじゃなかったけれど、どくどくとなる心臓は、次第に知らない人の手に握られているみたいになった。頭は小難しい堂々巡りをやめる。目を閉じると、行ったこともない鈴鹿川の景色が見える気がした。

 

私に、流れてる。どこかの米が、私の中でもう一度発酵する。いい、気持ちだった。父は笑い、母は泣いていた。いい、日だった。人生で一番。真の底からそう思えた。

 

今、酒飲みの先人たちが鼻で笑うような安いチューハイを飲みながらこの文章を書いている。あーあ。おじいちゃんとおばあちゃんばっかりの古びた居酒屋で、真っ黒タイトのワンピースにヒール履いてガバガバお酒飲むって夢見てたのになぁ。時代の流れに一番乗るべき歳に、どうしてって悲しくなる。生粋の酒飲みになる予定だったのになぁ2021。五つの輪っかよりずっと楽しみにしてた。

 

人生は思い通りにいかない。幼心を思い出してみても、童心には帰れない。時に子供は、頬を紅潮させて日差しの下でサイダーを飲む。時に大人は、青ざめた死に顔に口紅を塗るように酒を飲む。私も分かったような口を聞くようになった。葬式に何度も参列したみたいに。

 

きっと白髪が増えたらさ、今日のことなんて忘れてしまうんだ。飲み重ねた甘さの分だけ、記憶は朧気になってゆく。父はそれを愛した。母はそれを憎んだ。私はまだ少し涙ぐむことしかできない。

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