「帰りに、給油していこうと思うんだ」
功一(35歳)は言った。つい10分前まで生まれたままの姿だったが、下着も洋服も身に付け、すでにバッグも手にしている。まだ下着姿の深雪(31歳)は、慌てて財布に手を伸ばした。彼の言葉が、ガソリン代を貸してほしい、という意味であることはわかっていた。
「これで足りる?」
「サンキュ」
深雪が差し出した1万円を受け取り、功一は部屋を出た。以前だったら、別れ際に名残惜しそうにとどまってくれたり、抱きしめたりキスをしてくれたりした。それがなくなって、どれくらい経つだろう。代わりに、ことあるごとにお金をせびるようになった。これまでに貸した額は80万円を超えている。自分とは別に、本命の彼女がいることも知っている。
でも、金づるでもセフレでも何でもよかった。功一が自分のもとからいなくなることは、世界が終わることと同じだった。いや、それならまだいい。世界に自分だけが残り、ひとりで生き続けなくてはならないような、絶望的な孤独だった。
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深雪は長野県M市で生まれ育った。中学・高校のころはソフトボールに打ち込んだ。身長170センチ、体重63キロと女子にしては体が大きく、競技者としては恵まれていたものの、女子としてはコンプレックスだった。痩せたい、小さくなりたいと悩み、摂食障害を経験した。
卒業後は福祉系の大学へ。祖母の介護を母親と交代でするうちに、福祉の仕事に携わりたいと思うようになったのだ。ところが3年生のとき、摂食障害が悪化し、学校に通えなくなる。症状はよくならず、中退した。
だが、いつまでも家にこもっているわけにいかない。自宅から30分ほど、複数の路線が乗り入れる駅の駅ビルで、洋食屋のホールスタッフとしてバイトを始めた。家から離れた場所を選んだのは、地元の知り合いに会い、いろいろ聞かれるわずらわしさを避けるためだった。
その勤務先で、深雪は功一と出会うことになる。当時、深雪は21歳、功一は24歳。後に彼のことを「あんなに好きになった人は生涯でほかにいません」と振り返るくらい、深雪は盲目的な恋に落ちていく。
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「めちゃくちゃ似合いますよ」
声の方を向くと、ギャル男風の店員が笑顔を浮かべていた。肌は日焼けし、髪には茶色のメッシュが入っている。バイトの休憩時間に、同じビルにあるアクセサリーショップで、イヤリングを見ていたときだった。深雪を見下ろす形なので、身長180センチはあり、体格もいい。イケメンだけどチャラそう、というのが最初の印象だった。
「あ、ありがとうございます」
「こちら、お姉さんのために用意しておいたんです。よければつけてみてください」
店員はそう言って相好を崩した。こなれた冗談に、ますますチャラいと思ったが、その笑顔が少年のようで、深雪は好感を持った。これまで「ギャル男は別人種」とどこかで思っていたが、急に親しみを覚えた。そのイヤリングを買い、自分も同じビルで働いていることを告げると、「同僚じゃないっすか」と握手を求められた。
翌日、功一は深雪の店に来て、ご飯を食べていった。見た目のわりに、律儀な人だなと思った。そのお礼にと、深雪はシフト終わりに彼の店へ。雑談をし、ごく自然に連絡先を交換した。それから、仕事帰りに飲みに行ったり、休日にドライブに行ったりするようになった。
だが特に進展なく、二人は疎遠になる。功一が深雪に関心を示さなくなったのだ。その経緯を、彼女はこう振り返る。
「私はすごくわがままで、構ってほしい気持ちが強かったんですね。でもそれを口に出せないから、意味なく店に行ったり、どうでもいいメールを送ったりしてたんです。そうしたら、面倒くさいと思われたみたいで。メールも返ってこないし、電話も出なくなって、そのまま自然消滅しちゃいました」
深雪はこれまでに何度か恋愛の経験はあったが、どれも長続きしなかった。容姿がよくないという思い込みに加え、摂食障害や、大学を辞めてしまったことが、さらに自信を失わせていた。私を好きになってくれる人がいるわけない。一時的に付き合えても、そのうち終わってしまうのだろう。私なんかが追いかけたら迷惑に決まっているし、自分も無様になるだけ。
常にそんな思いがあり、恋愛に臆病になっていた。逆に言うと、うまくいかないのが当たり前と思っていたため、功一と音信不通になっても、傷はさして大きくなかった。