つけまをめぐる冒険!新宿二丁目で作家・山下紘加さんとデートなう♡【後編】

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『クロス』は自由を求める物語でもある

写真・宇壽山貴久子さん

 

――そもそも、女装をしても何も感じない人もいれば、市村のようにああまで変化した人もいる。その差は何だと思いますか?

 

むしろ私が聞きたいです(笑)。タイミングとかもあるのでしょうけど、市村は昔から、グラスについた男性の唇の跡が気になるとか、がっちりした男性が気になってしまうとか、男性を意識していたところがあります。女性性の傾向が少なからずあるけど、無自覚だった人が、何かのきっかけでなるのかもしれません。

 

実は最初、市村が女装をすることを、「母性を求める行為」という流れで書こうと思ったんです。男性が異性装をすることで、最も身近な異性である母親に近づく。そのときにどんな気持ちになるんだろう、と。

 

 

――実際は、母性を求めるという描写はありませんね。

 

そうなんです。おそらく誰しも、幼少期の何らかの出来事が、成人してからの自分に大きな影響を与えていると思います。ただ『クロス』では、「母親の愛に恵まれなかった」などのエピソードを入れると、私が書きたかったテーマがかすんでしまう気がして。母親の愛に飢えていたから女装にハマった、というような結び付けにつながりかねない要素は、できる限り入れたくなかったんです。

 

異性装をしたことで性が揺らいだ。そのきっかけは生まれ育った環境に関係なく、誰しもに起こりうるのでは……ということを念頭に書いていきました。

 

 

――女性装にのめりこむことで、何かを失いかねない恐怖も伴うと思います。それでも市村は、なぜ女性装を止められなかったのでしょう。

 

『クロス』は異性装の話ですが、自由を求める話でもあると思っています。市村は女性装者として男性に恋をした。男性性を一時的に脱ぎ捨てたことで、今まで感じたことのなかった自由を得られた。同時に、これまでの自分は窮屈だったんだ、と知ることもできた。

 

私もなのですが、無自覚のうちに女性性を強いられていると感じても、流してしまうことが多かったりします。例えば「女らしくない」「男の気持ちがわかってない」と言われて違和感があっても、女らしさとは、男の気持ちとは、と掘り下げることは、日常のなかであまりないのではないでしょうか。それはまさに、窮屈さに気づけなかったことと同じで。

 

”自由を求める”って、窮屈さに向き合うことだと思うんです。その先に失うものがあるとしても、自由へ向かうことを止められない人はいる。そして市村も、少なくとも当時はそうだったのではないでしょうか。

 

 

――ありがとうございます。最後に、世の中では LGBTQ や多様性が推進されていますが、『クロス』を通じてそれを促進させたいという思いはありますか。

 

結果として、読んでくれた人が楽になったり、新しい発見があったりするとうれしいですが、そこを目指して書いたわけではありません。LGBTQの枠に入らない、なおかつこれまであまり描かれてこなかった、新しい”性”の物語を描きたいという思いから、『クロス』は生まれました。読者の方にも、そういう読み方をしてもらえたらすごくうれしいです。

 

 

編集後記

自分の性自認はこうで、恋愛や性の対象はこう。当たり前のように自覚し、これまで違和感を覚えてこなかったという人は多くいるだろう。しかし、ふとしたきっかけで、その「当たり前」が揺らいでいくことは、決して荒唐無稽ではない。人は「こうありたい」「こうあってもいい」「こうあることができる」と知ることで、ときに我を忘れてその方向へ進んでしまうからだ。

 

その範囲は、ジェンダーや性という枠にとどまらない。あらゆる抑制から解放される自由を求めて、その果てに不自由が見え隠れしたとしても、止められないことがある。『クロス』はそんな人間の本質を書いた、普遍的な物語なのだと感じた。

 

 

改めて、デートなうを楽しみにしてくださっていた皆様、本当にすみません。お詫びではないですが、最後にこのメッセージを皆様にお届けして、デートなうを完結したいと思います。

 

この記事の写真、「彼女とデートなう」に使っていいよ!

(取材・文 月に吠える通信編集部)

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