江古田文学、三田文學、文芸ラジオ。新旧の大学文芸誌が見る”今”と”これから”。

 

あなたは何者であるのか?を一緒に考えるのが三田文學 「三田文學」関根謙編集長

 

三田文學

慶應義塾大学にゆかりのある文芸誌。1910(明治43)年、永井荷風が編集主幹となって創刊。森鷗外、谷崎潤一郎、芥川龍之介らの既成の作家に発表の場を提供し、一方で久保田万太郎、佐藤春夫、石坂洋次郎といった新人を世に送り出してきた。現在は季刊で年4回発売。

 

世界の動きをとらえる広い視野こそ三田文學の伝統

 

三田文學の関根謙編集長

 

――最初に三田文學の歴史・創刊の経緯をお聞かせいただけますか。

 

きっかけは文学部の危機です。慶應は最初、蘭学塾から始まって、明治改革の先駆者たらんとする意気込みでいろんなことをやっていました。そして大学令によって大学になっていくときに、“文学”と“理財”と“法律”の3つの学科を置くんですね。

 

そこから二十年近く経った1910年、経営が極めて危なかった。特に文学に対しては、廃止論までありました。そこで、文芸雑誌を作って活発にしていくことになり、永井荷風を編集主幹として招聘したわけで、それが三田文學の歴史の始まりです。

 

 

――文芸誌としてのコンセプトとして、耽美派と目にしましたが、それが大きなコンセプトになっていますか?

 

それは目指したわけじゃないと思いますけどね。当時の文芸の最先端を切っていくのが大きなコンセプトだったのだと思います。そこにヨーロッパから展開してきたモダニズムを、真っ先に捉えた詩人や作家が三田文學の書き手であった。また、日本の文壇をリードして書いていくという姿勢が非常に強かったと思うんですね。

 

 

――創刊当時、自然主義文学が強かった時代だったと思うんですけれども、そのなかで新しいことを追い求めていくことが、結果的に耽美派というキーワードがつく理由になったのでしょうか。

 

先陣を切った人たちが、象徴主義の詩人が多かったっていうのは言えるかもしれないですね。三田文學が活発に活動していくことが、文学部自体を大きく力づけていく、豊かにしていくことであったのだろうと思います。

 

 

――関根編集長の号ですと、アメリカ特集とかアジア特集などがあり、今度はイギリス特集もされると聞きました。前編集長は人にフォーカスしていたようですが、エリアへの転換はお考えがあったのでしょうか?

 

もちろん日本の文壇の状況、新しいもの、力のある作家、若手などを紹介していくコンセプトは引き継いでいますが、一つの大きなポイントは、編集長の個人的な運営をやめて、編集委員会体制にしたことです。日本だけにこだわらずに、広い視野をもつのが三田文學もともとの伝統だったんじゃないかと思いました。

 

永井荷風や西脇順三郎とかを考えてみても、常に世界の文学の動きを捉えながら考えていた。だから、三田文學130号の特集「アメリカの光と影」では、アメリカを捉えたというよりも、“アメリカの状況がどういう風に日本とつながっているのか”ということや、“言葉やアイデンティティの問題”を一貫して追求していきました。

 

アメリカは、トランプ政権になってからの問題というのもありますし、戦争の時代の日系人問題とか、根が深いことがたくさんあるわけですね。民族の違いによって生ずる矛盾・葛藤を捉えていくのがアメリカ特集のポイントでした。

 

ですから、南アメリカについてもかなり書いていましたし、日本人だけど英語で発信している人とか、逆に外国人の日本文学研究者が日本語で文章を書いていることもありました。

 

 

特集・連載ふくめ全体で一つの旋律を感じてほしい

 

――その次の131号では、「主張するアジア」という特集を組んでいます。

 

日本は近代の歴史のなかで、アジアとの関係が非常に複雑なんですね。そこをどういう風にみていくのか。そこからの文学の発信というのはいったい何なのか。日本語で創作している台湾出身の人だとか、ジェンダーの問題を抱えながら文芸の創作に従事している人ですとか、そういう人たちの作品を丹念に拾ってきたのがアジア特集でした。

 

特徴が出たのは、2人ノーベル賞受賞者の原稿を載せたことですね。1人はフランスの高行健さん、もう1人が劉暁波さん、そして夫人の劉霞さん、こういう方々の原稿を載せることができて、アジア特集の方向性は明確になったのではないかと思います。

 

 

――その次はエリアではなく、「破局から…」という特集に舵を切っていますね。

 

カタストロフ(大変動・変革)に対して言葉がどんな意味を持っていたか、言葉によってどう表現されてきたかをテーマにしました。近代の歴史のなかで、日本が破局に直面したとき、本当にそれを克服して次に残しながら進んできているのか、どうもそうじゃないんじゃないか、積み残してきたり、あるいはあっさり忘れてしまったりするところがたくさんあったのではないか。そこに焦点を当てているんですね。

 

例えば加藤典洋さんによる「一八六八年と一九四五年――福沢諭吉の『四年間の沈黙』」では、真の意味での近代性にアプローチしているんですけれども、もう一人、編集委員でもある粂川麻里男さんが「渡良瀬に立つファウスト――正造、諭吉、漱石」という厳しい福沢批判をしています。それがぴったり噛み合っているところに雑誌のおもしろさを感じました。二人合わせて書いたわけじゃないのに。

 

特集ではありませんが、前からの連載で、フランスから寄稿していただいている浅利誠さん「ジャック・デリダの思い出」があります。デリダのゼミナールでの思い出を語っているわけですけれども、それが言葉とアイデンティティの問題とか、言語自体がもつ思考との関連とかにリンクしてくるんですね。

 

だから特集だけじゃなくて、全体でも一つの旋律のようなものが感じられるんじゃないかと思います。丹念に読んでいただければ、奥行きのある雑誌になっていると思うんですね。

 

 

――巻頭に必ず詩を置いているのは、どういった理由なのでしょうか。

 

我々の編集になってから特に力を入れているんですね。詩はものすごく慎重に人選して紹介しています。理由として、朝吹亮二という詩人が編集委員に入ってくれていることと、我々の理事長は詩人の吉増剛造ですから、そこは一つのポイントですね。2、3の詩人を入れているだけじゃなくて、今度の特集「イギリス小説の現在(いま)」では、長文の散文詩が載ります。

 

これも、日本からアメリカに移住してきた日系人の苦闘とか、人生を丹念に描きながら、叙事的な散文詩で伝えている。かなり長いものなんですけれども、こういうのをやった雑誌はあまりないと思いますね。アジア特集でも、散文詩としてフランス在住中国人の詩人の文章を載せましたし、この領域に関しては明らかに広がってきています。

 

慶應は文学の発信地でなくてはいけない

 

――かと思えば映画評のコンテンツもありますね。

 

はい。「日曜日の散歩者」という台湾のシュールレアリスムの作家たちの記録映画があったんですけれども、アジア特集では二人が論じて、映画を見た人ならば「なるほど」と思うような、立体的な取り組みになっています。

 

それを書店イベントで紹介したり、慶應のアートセンターと協力して、「アムバルワリア祭Ⅶ 西脇順三郎と古代ギリシャ」というイベントで、台湾の風車詩社を取り上げたりする活動もしています。西脇順三郎の詩とかシュールレアリスムの詩がバンバン出てくるんですが、日本語とか台湾語が交じり合っています。

 

そういう世界に興味ある人ならびっくりすると思うんですけど、あまり馴れていない人には難しいかもしれないですね。

 

 

――三田文學の今後も守っていきたい伝統や価値はどんなところでしょう。

 

1910年にスタートしたときには、優秀な人を呼び込んで、文学の最も新しいところを伝えて行こう、言葉の力をもっと集約して発信できるメディアになっていきたい、という思いが非常に強かったと思います。永井荷風が必死になってやってきて、そこに一つのムーブメントというか、運動体としての雑誌が見えて来る、これが大事だったんじゃないか。

 

1910年からは一次、二次、三次と断続しながら続いて、戦争の終結を迎えるわけですね。そして第四次、つまり戦後第一次三田文學が始まります。そこからバトンを受けて走っているところになるんですけれども、永井荷風が持っていた文学のムーブメント、新しさを伝えていく媒体としての雑誌というのは、戦後よりいっそう意識されてきています。

 

特に戦後の第二次から第三次にかけての時期で、山川方夫編集長、桂芳久、田久保英夫、江藤淳、坂上弘が出てきて「文学の共和国」と言われていたわけですけれども、ここで編集の合議制と、独立採算制が確立されたんです。若い書き手が登場するための、公器としての三田文學という大きな方向性を言葉にしていった。

 

 

――公器としての三田文學、という言葉は非常に大きな志ですね。

 

それが明確になるのは、安岡章太郎と石川忠雄塾長の時代でした。このときに三田文學をまたやっていこう、慶應は文学の発信の地でなくちゃいけない、という強い思いがあった。それは、永井荷風以来の伝統を、もう一度確立していこうという意思だったと思うんです。

 

そこのところで、慶應が補助金を出して援助をするけれども、独立した経営体制、独立した団体として三田文學が動く。雑誌収入とか会費による収入と、慶應からの資金で経営を進めていく。それが僕らの編集部になって再度確認されて、方向性をもう一度確固たるものにしようと進んでいます。だから、文学の運動体としての雑誌という意識は今強く持っています。

 

文学は民族性と国境を突破する必要がある

 

――文学を志す若者たちに、発表の機会を与えるような取り組みもされているのでしょうか。

 

「織田作之助青春賞」の受賞作品を冬号に出したり、三田文學新人賞も充実させたりしていますし、学生創作セレクションという、学生の30枚ぐらいの短編を載せるスペースを空けています。

 

あと同人誌に対してもかなりスペースをとっていますので、そういう若い人たちへの励ましは大事だと思っています。だから慶應生じゃないから駄目だとか思わないで、どんどん投稿してほしいです。

 

 

――大学の文芸誌という存在は、一般の商業誌とは違ったあり方だと思うのですが、それならではの、商業誌ではできない面白さや価値ってどういうことだと思われますか?

 

大学の先生たちが趣味でやっているんじゃないかと言われることもあります。確かに先生たちが編集委員になっていますから、そう思われても仕方がないかもしれませんが、研究発表の場ではないわけです。出している論文も、学術的なものは抑えて書き方も変えてもらって、一般読者に訴えるような紙面にしてもらっています。そういう意味でこだわりなく作れる雑誌だと思うんですね。

 

今、売れっ子の文壇の人たちを必ず載せないといけないわけではない。こちら側が、時代や社会で大事な状況に対して文学のアプローチをする。これが我々の雑誌の特徴であり、最も自由なところだと思うんですね。だからそういう意味では、最も良質なものを伝えて行けばいいだろうと思っているんです。それができるのが大学の文芸誌ではないかと。

 

幸い、三田文學で儲けようと思っている人たちはあまりいなくて、寄稿してくださる作家の先生や詩人の皆さんも、お金を度外視してくれています。そういうことを受けられるのも大学の文芸雑誌だからじゃないですかね。これはやっぱり商業ベースとの違いですかね。

 

 

――最後に、これから三田文學が目指していくことを教えてください。

 

加藤宗哉元編集長が、三田文學の大きな使命は、世界の動きをきちんと伝えることだと言ってくださっています。吉増理事長は、今のアジアの文学、というか日本の文学の最も大事なポイントになるところだと僕に突きつけたんですけれども、日本という国の表現の中で言葉がどういう意味をもっているのか。

 

もちろん日本語を深めるということも大事なんだけれども、その前にアジアの言語として、韓国語とか台湾語とか英語とかさまざまな言語が混沌として存在した状況があって、お互いに影響しあっていた。

 

近代という歴史的な枠組みは、国境と民族性を強いてきたんですね。そこを突破しなければ今の文学はダメなんじゃないか。そしてその力の場になっていくところとして、台湾と韓国と沖縄は我々が常に見ていなくてはいけないところだと思うんです。三田文學がこれを外すことはないと思います。

 

そのなかで言葉の持つ意味、言葉はアイデンティティを規定しているのか、じゃあ複数の言葉を持っている人たちはどういう風なことになるのか、またアイデンティティは規定されたものなのか、とかね。

 

ポピュリズムとかショービニズムとか狭いナショナリズムとか、そういうことが世界中に席巻しているなかで、「あなたは何者であるのか」ということを一緒に考えていきましょうというのが三田文學であってほしいと思います。(次ページは「文芸ラジオ」編集長へインタビュー