表現とは「炭鉱のカナリヤ」になること
―ほかに創作で大事にしていることはあれば教えてください
私たちが今生きているこの時代は何なのか、ってことを、自分なりに分析して言えなきゃいけないんじゃないかな、って思うね。その答えが、いわば表現の出発点ではないのかな。
授業でもね、今の時代は何って生徒に聞いたら、色んなことを言うのよ。「リメイクの時代です」って言ったならば、じゃあ何でそうなのかって発表させてるのよ。それは自分が察知していることだし、常に考えなくちゃいけないことなんじゃないかって気がするけどね。あと表現するってことはさ、どっかで炭鉱のカナリヤになるんだよね。
―炭鉱のカナリヤ、ですか?
炭鉱を掘るときさ、最初にカナリヤを持っていくじゃない。ガスが出てくるかもしれないから。最初に悪いものを察知する。なんか危ないんじゃないか、っていうカナリア的な部分を持ってなくちゃいけないんじゃないかっていう。
なんかさ、時代が今危ない方に行ってるんじゃないかって察知したり、人の心がこんなに捻じ曲がってるのは危ないんじゃないかって思ったりする、危険を察知する能力はどうしても必要な気がするけどね。どうも人間は悪い方向に行ってるんじゃないかって思ったならば、そのことを表現に生かすっていうかさ。
―色々な創作論を伺いましたが、その一方、表現をビジネスにするにはまた違った難しさがある気がします
そうだね。先に商売にしようとするとダメだよね。生きていることそのものが、自然に商売になっちゃうってところまで行けば楽勝だよね。全て露呈して書き続ければいいんじゃないの。飽きられるくらいに書き続けて、出すことは全部出しちゃってさ。人物の全てが表現になっちゃうってところまで持っていけばいいんだよな、書く人も。悪趣味だなと思ったって何だって書いちゃうとかね。(取材・文 コエヌマカズユキ)
※次回に続きます