平安時代にもあった「傘がない!」
さてさて、時は1970年代から更に更にさかのぼって、平安時代初期。かの有名な歌物語「伊勢物語」107段にも、雨の中、“君”に逢いに行くか迷っている男がおりました。
「昔、男ありけり」という一文から始まり、章段ごとにこの“昔男”(平安時代の歌人・在原業平がモデルといわれる)の周りに起きた出来事と和歌が綴られていくスタイルの伊勢物語ですが、今回、主役となるのは昔男ではなく、藤原敏行という貴族。
この人は、三十六歌仙に数えられるほどの歌の名人。彼の恋とはいったい、どんなものだったのでしょうか。107段の内容をみていきましょう。
昔、高貴な男(=在原業平)がいた。その男のもとにいた女に、内記(=中務省の官職)であった藤原敏行が、結婚を申し込んでいた。しかし、女はまだ若いので、手紙もきちんと書けず、恋の言葉の使いかたも知らない。まして、歌など詠まなかったので、例の、女の家の主人である男(業平)が、手紙の下書きを書き、それを女に書き写させて、敏行のもとへ贈った。 |
業平、今でいうゴーストライター的な役割ですね。そんなこと知りもしない敏行は、この女、なんてすばらしい歌を詠むんだと感心してしまって、返歌を贈ります。
つれづれの ながめにまさる 涙川(なみだがは)
袖のみひぢて 逢ふよしもなし
(訳:何も手につかず、あなたへの物思いにふけっていると、長雨のときの川のように、わたしの涙の川も水かさが増して、袖だけが濡れるばかりで、あなたに逢うすべもないのです)
この歌に対する返歌もまた、業平が代筆。
あさみこそ 袖はひづらめ 涙川
身さへながると 聞かばたのまむ
(訳:私への思いが浅いので、涙で袖が濡れる程度なのです。もっとひどく涙をこぼし、身体まで涙の川に流れるほどだと聞いたなら、あなたの愛を頼りにしましょう)
涙で袖を濡らしてる程度じゃ甘い! ってことですね。さすがは歌の名人にして、男心をよくわかっている業平。この「涙川」をうまく取り込んだ返歌に、敏行はすっかり感嘆。手紙を文箱に入れて、大切に取っておいたそうな。
さて、注目したいのは、二人が無事むすばれたあとのこと。“君”に逢いに行かなくちゃと思うのに、雨が降りそうな空模様。敏行は“君”に手紙を送ります。
雨の降りぬべきになむ見わづらひ侍る
身さいはひあらばこの雨は降らじ
(訳:雨が降りそうなので、空を見てはあなたのもとに行くか悩んでいます。我が身に幸運があるのなら、この雨は降らないでしょう)
“あーあ、逢いに行きたいのに雨が降りそう、なんて俺は不運なんだ”……煮え切らない男です。これに対して、業平はまた和歌を代筆して切り返し。
かずかずに 思ひ思はず とひがたみ
身をしる雨は ふりぞまされる
(訳:私のことを思ってくれているのか、そうではないのか、あれこれとお尋ねすることもできないのに、あなたは逢いに来てくれない、我が身のほどを知る雨が、いよいよひどく降ってきます)
雨が降りそうなぐらいで来てくれないなんて、そんな程度の思いなの? 降り出しては強くなっていく雨は、女の涙のようでもあります。これを受けた敏行はなんと……
蓑も笠もとりあへてしとど濡れてまどひ来にけり。
(訳:すると、男は蓑も笠も身につける間もないほど大急ぎで、雨にびっしょりと濡れてやって来たのだった)
そうです! 古典の中の男は、傘もささずに、雨に濡れてやって来たのです。
“つめたい雨が今日は心に浸みる
君の事以外は考えられなくなる
それはいい事だろ?”
「傘がない」のCメロでは、こんなふうに歌っていますが、きっと「伊勢物語」の中の男は、“君”の事以外は考えられなくなって、どしゃ降りの雨の中に飛び出していったのでしょう。
はたして、「傘がない」の男は、傘なんかなくても濡れて逢いに行ったのか、それとも、からっぽの傘立てのある玄関先で、いつまでも逡巡していたのか……。どちらだったのでしょうか。
もし「伊勢物語」の敏行のように、逢いたい“君”と、電話でもメールでもラインでも、なにかやり取りを交わしたならば「傘がない」という絶望をまえに立ちすくむこともなく、飛び出していったのでしょうか。
どうしても逢いたい人がいる。逢いに行かなくちゃいけない人がいる。でも外はどしゃ降りの雨。傘がない。さてあなただったなら、どうしますか?(文・三七十)
【参考】
「新潮日本古典集成2 伊勢物語」新潮社、1976
「新日本古典文学大系17 伊勢物語」岩波書店、1997
「新編日本古典文学全集12 伊勢物語」小学館、1994