『第一回 紫陽花はどこへ消えた?文学賞』受賞作品

Photo by takashi taira .

 

優秀賞『紫陽花盗み』續池揺(つづいけゆれる)

 

その紫陽花の鉢植えはいつもの通りの右側の端の、建物と建物の間の細長い暗い薄汚れた隙間にポツンと置かれていた。なんの変哲も無い茶色い素焼きの鉢にふたつ、ぼんぼんと薄紫の花をつけていた。

 

なんでもない朝だった。なんでもない紫陽花。いつもなら何も思わずに何気なく通り過ぎるはずの道だった。しかし実際にはわたしはその朝、鉢植えの前でふと立ち止まりちょっとしゃがんで、その紫陽花をさっと抱えてなんともないように踵を返し、早足で自宅へと帰ったのだった。

 

鉢の下から溢れた土が道路に落ちているのに気がついて途中で手で塞いだ。湿った重い土の感触を指の先でしっとりと感じながら頰を上気させ、しかしわたしは何をしているのか?というような疑問は思い返せばその時わたしにはなかった。

 

わたしがいわゆる「我に帰った」瞬間は施錠された自室の玄関の鍵を、片手に鉢を抱えたままもう片方の手でやっと開けて滑りこんでそのままベランダに隠すように鉢植えをゆっくり降ろした時だった。

 

ベランダの左のほうの端にそっと鎮座したその鉢植えはあの建物の隙間にある時よりずっと大きく見えて、それからようやく自分の指についた濡れた黒い泥がまるで殺人の証拠のように恐ろしく感じられてわたしはにわかに動揺した。

 

一体どうしちゃったんだろうと思った。それまでは一切の躊躇いはなかった。わたしはただ当たり前のことをしているだけ、というようなさりげなさだったのだ。

 

わたしは驚いて紫陽花から逃げるようにベランダから部屋に入り鍵まで閉めて大きく息を吐いた。薄暗い部屋を見渡して後ろを見ないままカーテンを閉め、洗面所に向かい手についた泥を落とした。

 

鏡の中の自分はなんだかよそよそしく見えた。何を考えているのかわからないように思えた。そう思っているのは自分であるのに不思議だ。何か目の奥で別のものを見ているようだった。

 

いつものように紅茶を入れようと台所に立ち、やかんを火にかけて夜のために米を研ぐ。しかしそのどれもただ気をそらすためだけに行なっているということはよくわかっていた。

 

むしろ何かに気を向けようとすればそれだけ、自分の意識が後ろ髪をひかれてベランダの方へ引き寄せられているのをひしひしと感じる。わたしは結局淹れたばかりの紅茶をほとんど飲まないまま立ち上がって再びベランダに出てしまう。

 

例の紫陽花の頭はどちらもわたしの方を向いてじっとただ黙っていた。わたしはそれらから目をそらすことができない。紫陽花はじっと、水面下で、空気の中の中の目に見えないところで、あるいは地中から、わたしを大きな強い執着のようなちからで縛りつけていた。

 

たしかにそれがわかった。執着。わたしはじわりと額に汗をかいている。胸の間にも、指と指の間にも、そしてわたしは股の間にわたしが持っているあの機関がぬるりと覚えのある感覚でそっとその機能を発揮する用意をしていることに気がつく。

 

胸の先端が尖るのは血が送られてくるせいだ。心臓がやかましく余計に速く脈打っている。混乱と羞恥を十分に感じているわたしの前頭葉とは全く関係のない生き物みたいにそっとわたしの腕は動く。脚はそれがし易いようにさりげなく開く。

 

わたしは紫陽花に向かって自分の秘所を拡げているのがひどく恥ずかしく、不適当であると感じている。しかしそれはどうしようもなく起こる。目の前の紫陽花がわたしに迫ってくる。まるで自分より力の大きなものに組み伏せられて何もできずただ無力に犯されているように感じた。

 

実際にはわたしはただ盗んできた紫陽花の前で自慰をしているというだけであるはずなのに、どうしてもそうとは思えない。だって脚の間に滑るように割り入ったわたしの指は、わたしがまるで知らない動き方をしてこれまで触ったことのない壁をそっといろんなやり方で撫でている。

 

わたしがこれまで自分自身だけとこっそり分かち合ってきたささやかな自慰と、今わたしがこの紫陽花の前で行なっているのは全然違うものだった。わたしは侵され、犯されている。

 

もはや気もそぞろになって目を閉じてしまっているのに、いや、開けているんだろうか?それすらわからないくらいにただその紫陽花の薄紫がもうわたしの視界を全部覆ってしまうくらいに大きくなっている。

 

頰や耳や脳みそまで沸騰しているように熱く熱く血が上っている。わたしはこれまでのどんな性経験より大きく理不尽な快感の波の中になすすべもなく押し流されてひどく怯えていた。

 

わたしは薄暗がりの中で目を覚ますとしばらくじっと身動きせずに世界に自分を馴染ませる。締め切った麻の白いカーテンの向こうからやわらかく外の世界はほんの少し発光している。カーテンの外のガラス戸のまた向こうに幾朶も連なって咲いているわたしの紫陽花が確かにこちらを見透かしている気配がする。

 

「はい、すぐに水を差し上げますね」

 

そう小さく呟くと満足げに風にさわさわと揺れる。「是」と言われているようで可笑しい。わたしは裸足の足を冷たい床にそっと下ろし、ひたひたと窓から出て庭へ向かう。

 

まだ慣れていない目に朝の光が眩しく、一瞬目がくらむようになる、その時わたしはあのはじめての時を少し思い出して微笑む。あなたがわたしを選んでくれた朝。指を濡らした湿った土。庭用の簡素なサンダルに足を突っ込んで水やり用のホースを掴み、水勢は弱いままそっと丁寧にあなたの身体中に冷たい水を遣る。

 

風にあなたのどこかが揺れる。わたしがかけた水滴が光を孕んできらりと落ちる。あなたはなんでもない朝の光の中でとにかく満足げに落ち着いているように見える。

 

わたしはそのことがひどく嬉しく、あの朝は二朶ぽっちだったあなたの花序がいまでは数え切れないほどに広がってわたしの庭に根付いていることはきっとあの朝にあなたがわたしに求めたことなのだと信じている。

 

 

特別賞『花首』火屋朔

 

私は部屋で一人、首のない少年と対峙していた。一糸纏わぬ少年のしなやかな肢体に、滴るような若さへの憧憬と衆道めいた情欲とが胸の奥で疼くのを感じる。残酷な年月に侵される刹那、その危うさは顔のない為に一層、悩ましかった。

 

少年が何者なのか、私は知らない。薄っすらと肋骨の浮いた胸が緩やかに上下しているところからすると、生きているようである。ハテ、人間とは首がなくても生きていられるものだったかしらん?……

 

代わりの首を用意してやらねばならぬ。

 

そんな考えが天啓のようにひらめいたとき、私の脳裏に浮かんだのは、いつか骨董店で手に入れた白磁の花瓶であった。その滑らかな白さは少年の細やかな肌と実に調和して、その頭蓋たるに相応しいと思えた。

 

耳介を模した巻貝の殻を両脇に並べ、妻の遺した口紅を白磁の頭蓋にひいてやる。私はそこで手を止めて、わざと瞳を与えなかった。視線を介した所有の特権を、手放したくは無かったから…

 

「良い首を有難う、小父さん。」

 

その麗しいソプラノに、私は思わず身を震わせた。

 

「この頭は実に具合がいいや。でもさ、小父さん、何か足りないよ。気づいていないの?」

 

「目のことかい。」

 

「目なんか、そんなもの要らないよ。僕は脳味噌のことを言ってるんだ。ぼんやりしちゃってさあ、脳味噌がなくちゃ、何にも考えられないじゃないの。」

 

少年の言い様があんまり小生意気でいじらしいので、小指の一本でも折り取ってしまいたくなる。

 

「脳の代わりにするのはね、紫陽花だよ。隣の家に、立派なのが咲いてるでしょう、僕はちゃんと知ってるんだから。」

 

成程言われてみれば、あの繊細に組み上げられた鞠のような花は、純白の器に収める脳味噌たるに相応しいかも知れない。

 

「それでは、家人に話をつけて来よう。」

 

「駄目だよ。そんなことしても意味が無い。盗んでこなくちゃ。隣の人はきっと、一番不細工な花を渡してくるよ。そんなの駄目だ。持ち主が惜しくって歯軋りするくらい、一番美しいのでなけりゃあ。」

 

「そうか。」

 

私は普段盗みなど勿論、他人に物を借りることも好まないような人間である。だがどうしてもこの時ばかりは、紫陽花を盗んでこなければならぬと思った。道徳観までも曇らせる、この盲目は、恋なりや?…

 

忍び入った他所の家は不気味なほど静かであった。一番瑞々しく艶やかで、柔らかな半球を象ったその花をバチン、と切り取る。その感触の生々しさにぞっとした私は、急いで我が家へ逃げ帰った。あの少年の首も、こうして私が盗んだのじゃないか…

 

美しき供物を捧げられて、年若の美神は奴隷を労うこともなく哄笑した。

 

「うふふ、アハアハ…アア可笑しい、小父さん、本当に盗んできたね、アハハ…これで小父さんは罪びとだ。今に罰が下るよ…」

 

その笑い声の一つ一つが、昂った私の神経をじくじくと苛む。

 

「なんだって。君が言ったんじゃないか。それで、君は、私を、責めるというのか。」

 

一体、何の権利が有るッ。私は半ば絶叫する。冷静さを欠いた頭が、狂気じみた憤怒に染められる。

 

「僕には全ての権利が有るよ、僕はこんなに綺麗なんだもの…其れを一番よく知ってるのは、小父さんでしょう?」

 

―ふつりと、何かが切れる音がする。ギロチンの紐か、マリオネットの繰り糸か、それとも、差し出された慈悲の糸か…

 

私は、貝殻を取り上げて、力いっぱい握りしめた。絹を裂くような悲鳴とともに、ばらばらに砕け散る。潮の匂いに交じって滴る鮮血は、一体誰のものだろう?

 

「ねえ、悪かったよ、何も聞こえない、僕は今喋っているの?ねえ、助けてよ…」

 

ああ、そんな哀れっぽい声を出すものでは無いよ。齧り付く様にして紅を舐めとれば、ひんやりと冷たい蝋の味に眩暈がする。

 

わなわなと震える白い膚の柔らかさにはっと動きを止めて、しかしそのまま切り裂いた掌に零れたのは、極彩色の花々だった。真綿の代わりに花を詰めた、彼は只の人形であったか…匂やかな花弁に顔を埋めて、狂瞳の罪びとは呟いた。

 

香りを欠いた紫陽花が、水面に揺れる。見たまえ、その花は偽物だ…

 

 

特別賞『あまぞらに願いを』有馬和霞

 

珍しく雨の降らない朝を迎えたが、案の定というべきか、暗雲に覆われた空が示す通り正午を待たず雨が降り出した。

 

朝食と昼食を兼ねた軽い食事をとると、ポーチに折り畳みナイフと古い写真を忍ばせ、ビニール傘と共に表へと繰り出す。年に一度、この日に行う私の日課。すっかり毎年恒例となった儀式の為に電車を乗り継いで、かつての住処へと向かう。

 

こんな下らない事の為に、貴重な一日を費やす事へのバカらしさに、些か呆れる感情を認めつつ、しかし来年も行える環境である保証はなく、もしかすると今年が最後の年になるかもしれないという不安から、重い足を前に進める。

 

道すがら、古い写真を取り出し眺める。十年以上昔の写真だ。まだ幼さの残る私と、もうそこから歳を重ねる事のなくなった彼女が映る。背景には、かつての住居と赤い花を実らせた紫陽花。

 

庭に紫陽花を植えることが風水の上で縁起が悪く、特に若い未婚女性の住む家には御法度らしいが、今更そんなことを知ったところで何の意味もない。

 

彼女は事故に巻き込まれて死んだのだ。この写真に写る住居の庭で。それが紫陽花の呪いだったのか、他の要因だったのかは知る由もない。ただ一つ、彼女が死んだあの日から庭の紫陽花に変化があったことが、妙に因縁を感じさせていた。

 

やがて、かつての住まいだった屋敷が見えてくる。誰にも見られていない事を確認しつつ、裏口から庭へと侵入する。事故物件という事と立地の悪さから、未だに買い手のいない屋敷だ。かつての住まいとはいえ、不動産業者が管理している以上、不法侵入と咎められても仕方がない。仕事は手早く行わなければ。

 

私は写真の場所へと歩みを進める。そこには、今年も青い紫陽花が咲いていた。紫陽花の青色は、紫陽花の持つアントシアンに土壌から根を通して吸収されたアルミニウムが結合して発色するという。

 

しかし、彼女は青い紫陽花の下には死体が埋まっていると言った。

 

何かのフィクションの影響だったか。曰く、死体が土壌を酸化させ、アルミが溶け出し、吸収が促進され青色が発色しやすくなるという。

 

そんな馬鹿な話を真顔で語る彼女に、少し辟易しながらも、その純粋さが羨ましくもあった。もちろん、この庭に彼女が埋まっているわけではない。しかし事実として、彼女が死んだその日から、この庭の紫陽花が赤色から青色に変化したのだ。

 

常識的に考えれば、近年の雨の酸化が影響していることは明白だった。丁度当時は酸性雨という言葉が流行り出した時期でもある。しかし、そこに彼女の残滓を幻視してしまうのは、はたして間違っているのだろうか。

 

私は折り畳みナイフを取り出し、紫陽花を一輪だけ刈り取ると、駅のコンビニで都合したビニール袋に収めた。

 

やがてこの紫陽花は、数日の間だけ我が家の片隅を彩るだろう。

 

紫陽花は風水上縁起が悪いのは、女性が結婚できなくなるからだという。きっと私が未婚なのは、こんな儀式を毎年続けているからだろうか。だが、来年もこの庭に青い紫陽花を刈り取れる保証はどこにもない。

 

不動産業者が資産価値を上げるために、更地にするかもしれない。土壌の性質が変化し、紫陽花の色が変わるかもしれない。何より私が、この儀式を必要としなくなるかもしれない。

 

催涙雨がスカートの裾を濡らす。

 

また来年も彼女が亡くなったこの日に、彼女の残滓を感じられる事を願い、私は帰路についた。

 

特別賞『額の花』金田葉子

 

「お母さんの時みたいに、又来てもらいたい。」

 

突然の父からの電話に血が逆流した。胃ガンの手術を受けることになったって、何だってこんなぎりぎりまで黙ってて、いきなりもう。

 

母さんが逝って二年、確かに実家から足が遠のいていた。だからって……

 

ひとまず昂りを鎮めて病院へ電話する。父には内緒で家族外来の予約を入れた。若い主治医の説明は早口で専門用語が多い。ステージ3で全摘。

 

「ご高齢ですからICUに入って頂きます。輸血も必要なので同意書に署名を。」

 

もう手術日も決まっていた。手術を受けないという選択肢はないらしい。

 

「ただいま!」 大きな荷物を提げて実家の玄関で怒鳴った。耳が遠いのか出て来ない。ずかずか仏間を横切って茶の間を開けると、野球中継を見ていた父が振り返った。「ほぉ、来てくれたか。」

 

父が風呂に入ってる間に入院セットを用意する。パジャマに油性ペンで名前を書きながら不意に涙がぽろぽろこぼれ出した。なかなか止まらない。うろたえる。母さんのときには私に全部まかせて逃げ回ってたくせに。勝手なんだから。

 

術着に着替えて手術室からの呼び出しを待ってると、父が急に庭の紫陽花の話をし出した。「紫陽花という花は水を沢山欲しがるから、水遣りを忘れんよう頼む。」

 

「はいはい、分かりました。」いいかげんに答えて、手術室のドアに消える父に手を振った。

 

正確には紫陽花の中でも「額の花」という種類で、薄紫のビーズ状の花を白い花びらが額のように囲んでいる可愛らしい花だ。五月の今は、緑の葉が繁って大きな塊になっている。六月に入り一般病棟に移れたものの、退院許可がなかなか降りない。異様に暑い日々が続き、長引く病院通いに私の疲れも溜まっていった。

 

実家の近くに「雪国」という名の居酒屋がある。カウンターだけの小店だが、気さくなおばちゃんの切り盛りで、いつも繁盛している。今日はここで夕飯と思い決めて、女一人で縄のれんをくぐった。生ビールをもらって突出しのポテサラをつついているところへ、おばちゃんが揚げたての串カツを運んで来た。

 

「店の前の鉢ね、お父さんに株分けしてもらったのよ。犬の散歩で通りかかって、ほめたら剪ってくださってねぇ。」

 

「そうだったの。」

 

「よく根付いたでしょう。」

 

「ほんと、きれいだね。」

 

ほろ酔いで帰宅して玄関灯を点けた。ポーチの前の額の花は無残に立ち枯れ、狭庭いっぱいに夏草がはびこっていた。

 

家中の電気を点けてみた。父さんはあれからこの家でどんな思いで暮らしてたんだろう。食卓の父の席の周りが手垢でべたべたしていた。こんな狭い席で、冷蔵庫に向かって……

 

夜半、電話の音で跳び起きた。病棟のナースの声だ。

 

「おしるしのお通じがありました。何が起きてもおかしくない状態です。お話をされるなら今のうちかと。」

 

大急ぎで着替えると、玄関のスリッパ立てから鋏を抜き取って「雪国」へ走った。雨脚が強い。

 

(おばちゃん、ごめんね!)