【結果発表】【受賞作掲載】第一回 人はなぜ本を返さないのか?文学賞

最優秀賞

『春子と秋子の憂鬱』哨立澪(みはりだちみお)

 

最前列の春子姉さんは、ほんと可哀想。いつもベタベタ触られるだけ触られて、スカートをめくられて覗かれて、ショーツの中まで指を入れて大事なとこまでジロジロ見ようとする客だっているんだから。

 

そこを見せたらお金払って欲しいくらいなんだけど、退屈そうに雛壇に並んで客待ちしている私達は、実際に退屈しきっていて抗議する気もないわ。だって生まれてきたからには誰かをちょっとでも幸せにしたいし、せっかく選んでくれた人には夢中になって少しでも長く見つめて欲しいわけ。

 

一瞬でも最高の気分を味わい元気になって、毎日のうんざりする仕事で頑張って稼いだお金を持って、また店に来て欲しいの。

 

私は秋子。本当は姉さんと同じくらい汚れた躰なんだけど、顏を見て後姿をさらっと確認するだけで、たいていの客は、姉さんでなく私を選ぶわ。三列目の奥にいると処女だと信じちゃうみたい。

 

処女って股関節が柔らかくないので開くのに手を焼くから、それほどいいものじゃないんだけど、処女しかダメって客もたくさんいるのが現実。春子姉さんだけ見て脇目も振らず姉さんで即決する男が二か月前に一人いたけど、本当いさぎいい男って滅多にいない。

 

いつものように姉さんを冷かしてから奥の私を選んで料金を払い店から連れ出した客は、ちょっと老眼が始まる年齢で、私を自分の部屋のベッドに連れ込むと、私のアソコを見るためにメガネを取り出して、時間をかけて両方の穴をネチネチ観察したわ。

 

興奮した変態野郎に舐め回されてグチャグチャ食べられそうになったり、誘拐されて行方不明のままだったりする従妹の話を耳にしたことがあるけど、今日の客は常識的な部類で助かる。

 

私の姉妹の内股には二つの同じ刺青があって「花火」と「橋桁みたいな絵柄」が彫ってあるの。前も後ろも楽しめるから、客にとっては特別お得なわけ。

 

ベッドで朝を迎えた私が、次はどうなったか知りたいでしょ。

 

払ったお金の分くらいは満足したのか、少しすっきりした顏で、男は私を別の人に貸すことにしたみたい。一回やったら捨てられるか棚に飾られるのがこの商売の普通だから、別の部屋で楽しい続きがあるってのは悪くない。

 

メッセンジャーで連絡しているのをチラ見したら、相手は男が近ごろ粉をかけてる女らしい。新作の刺青ぐらいで口説こうなんてチープ過ぎ。

 

女に会った途端に、男は彼女のネイルを褒め称えるわけ。まあ成行きだし面白そうだから、指先の一平方センチ十か所に毎週半日くらい費やしていそうな女の部屋に付いて行ったんだ。そしたら、いきなり女が裸になるから、一応女の私はドキドキしちゃって、もしかして部屋では裸でいる「裸族」に遭遇したのかと期待したんだけど、最初はバスルームでプレイしたかったみたい。

 

で、私も一緒にどうぞ、ってことで、湯船で私達は股を開き向き合うお決まりのポーズ。だんだん興奮してきた女は、いよいよイク時に私を湯船に突き落とす始末。あれは絶対にネイルをかばってた。私より当然ネイルが大事なわけよ。

 

次に男に会った時、女は「お風呂で水没させちゃったので返せない」って悪気もなくヘラヘラ言うんじゃないかと思う。もちろん決して自分から言わない。男から聞かれたら仕方なしに返事する程度。

 

自分はそのくらい価値があって返さなくていい女だと確信があるから。女は生まれつき確信犯なの。水没なんて理由が本当であってもそうでなくてもいいの。本当にいい女は想像だけでもびしょびしょに濡れることができるんだから。と、今はゴミ箱の中で私は恍惚に浸ってぼんやりしてる。

 

春子姉さんを選べないようなバカ男は、急性潔癖症になってピラニアの川で背泳ぎするワニくらい慎重に選んだはずの私のことなんか、今はどうでもよくなってる。「風呂で水没」って言葉でスイッチ入れちゃって、頭の中は、浴槽で泡まみれの女の肌を想像してるんじゃないの。

 

特別賞

『雨滴』雪村あかり

 

雨の音に、電車の音が混ざり始めた。電車の光が激しい音と共にすり抜け、また雨の音が響く。高架下の道は雨のせいか、それとも夜のせいか、いつもより暗く感じた。

 

駅に着くと、階段前でギターを抱えた男がいた。皆仲間だ正常心、と叫ぶ。その甲高い声は天井の高い階段に響き私の耳に届いたが、歌詞の不可解さに足が早くなった。改札前の時刻表はまだ目的の時間を示しておらず、違う電車が到着し、乗車していた人間が、改札を通る。

 

電話をしながら急ぐスーツ姿の男が、私の肩にぶつかった。私の濡れていない方の傘が落ちた。人混みに蹴られないように、急いで手に戻す。

 

「この前貸した本、返してくれない?」

 

昨日の喧嘩はこの一言から始まった。私が三ヶ月間以上も本を返さないことが原因だったと思う。返さなかった理由は昨日話さなかったが、その本は彼が読んでいるのにも関わらず借りたものだった。

 

彼は優しく貸してくれたが、私の借りた期間が長すぎたために、昨日言い合いをすることになった。すぐに謝って返せばよかったのかもしれない。本は開かずにクローゼットの奥に入れたのだから。

 

黒みがかったグレーの傘の取っ手は茶色く、私の手では上手く掴むことが出来ず、持つとよく手を落とすことがあった。持ち歩く時は傘の中央を両手で握るようにしていた。この傘の持ち主である彼を迎えに行くのが楽しかった。

 

家で彼を出迎えるよりも駅まで傘を持って行く、この普通に私は嬉しく思った。社会的に私がどうあるとか、そういうのを一切なしにして、ここにいる時は彼を待つだたの女性になれるから。傘を二つ持つ、私の顔は隠せないほどニヤついていた。

 

――なんだよ、その顔。

 

私を見つけた彼がそう言いながら、私が持つ傘を受け取った。

 

玄関の傘立てに、濡れた傘が家に二つある。傘についた水滴が先端に向かって伝って落ちていく。落ちた水は小さい水たまりを徐々に大きくする。

 

あの日のことを繰り返すために今日ここに来た。

 

改札を出た人間が、噛んだガムを何かの包み、道に捨てた。落ちたガムは人が行き交う道に転がり、当てもなくさまよい、見えなくなった。あのガムのゴミは、さっきの男が投げた瞬間から、あの男のではなくなった気がした。

 

もし私がここで傘を、あの男のように手から離したら、それは私のものでなくなるのだろうか。もしくはお金をここで手放せば私のものではなくなるのだろうか。手を離しても離さなくても、ものに何一つ変化はないのに私達の意識は全く違うものになる。

 

不思議なものだ。私のもの、相手のもの。誰が手にしても、ゴミはゴミであるし、傘は傘である。材質も、性能も、ものの質は変わらない。もの、が自分のものである、誰かのものである。

 

それを決めるのは人間の意識の問題ではないだろうか。ぼんやりしていると彼がいつも乗る電車が時刻表一番上に表示された。

 

「私を、見て」

 

彼に言う言葉は決まっていた。彼が謝る前に私は本当の理由を話すべきだった。

 

「最初は私との時間が増えたら、それでよかった。本読んで楽しそうに笑ってるあなたをそのまま愛せたらよかったのに、なんだか……寂しかった。馬鹿だからさ、あなたから本を取ったらね、私を見てくれるんじゃないかって、優しくしてくれるんじゃないかって、私のものになればいいって、邪魔だった本をあなたから奪いたかった」

 

私は話しながらも彼の顔を見られなかった。見てしまえばいいたいことを言えなくなってしまう気がした。気がつけば彼の傘を強く握り、目が霞むのをどうにか誤魔化そうとしていた。

 

――一緒に住み始めた時、嬉しかったよ。暗い帰り道を歩いている時に、俺のマンションの光がついている。俺はあの光に帰ればいいだけなんだな、なんて思ったよ。

 

仕事で疲れても理不尽に怒鳴られても、玄関を開ければ料理をする音や、お風呂の良い香りがする。安心しちゃったんだけど、寂しい思いをさせたね、それに気づけなかったよ。

 

彼は私が持つ傘を広げ、傘の中に自分と私をいれた。二人とも片方の肩を濡らして、道を歩く。

 

――本を返さなかった理由をちゃんと言って。『構って欲しくて本を返しませんでした』って。

 

彼はしたり顔を見せた。

 

――言わないと入れないよ。

 

彼は私と入っていた傘を動かし私を傘から出そうとする。私はもう片方の肩が濡れているだから濡れてもよかったが、慌てて見せた。

 

玄関の傘立てに、濡れた傘が家に一つある。傘についた水滴が先端に向かって、小さい水たまり作る。

 

 

特別賞

『猫の名前』大嶋航

 

猫に名前を付けるとき、人はどれくらい長い時間をかけるべきなんだろう。

 

朝の天気予報を聞きながら、僕は窓辺で眠る「夕顔」を呼んだ。僕の声に気が付いた夕顔は、億劫そうに首をかしげてこちらを向いた。「夕顔」というのは僕が飼っている白い猫の名前で、通算して四百個目の彼の名前でもあった。

 

去年の春、とある顔馴染みから頼みこまれて、この猫を引き取ることになった。喫茶店の真向かいの席で煙草をふかしていた顔馴染みは、「少しのあいだ家を空ける」と唐突に告げた。突然の話に、読んでいた本から慌てて顔を上げると、どことなく晴れやかな表情になった彼が目の前にいた。

 

僕の本を指さした彼が「それを餞別にほしい」と続けるので、それでは僕が頼まれるばかりでずるいとかなんとか、そんな返事をしたような気がする。

 

何しろ、栞も挟まず本を閉じてしまうくらいに混乱していたものだから、結局どんな話の経緯になったのかあまり覚えていない。気が付いた時には、本と引き換えに受け取った一冊の国語辞典と、小さな一匹の白い猫が僕の手元に残っていた。

 

買ったばかりの本が、国語辞典に姿を変えてしまったことはどうにも腑に落ちなかったが、彼の鞄に入っていた唯一の本だったというその辞典を眺めて、僕は彼が国語辞典を引く必要のないところへ行くのだと思った。

 

そして今、僕はその国語辞典の中から、猫の名前を探している。辞典の中に並ぶ言葉はすべて同じ猫の名前の候補たちだ。

 

毎朝、辞典の一ページ目から順番に選んだ言葉を、日替わりの名前として猫に与えること。それが毎日僕が欠かさず続ける日課だった。飼い主から見放されてしまったこの小さな同居人を、僕はとびきりぴったりの名前を付けることで慰めてやりたかった。

 

夕顔と暮らし始めた最初の日、僕は彼を「あじさい」と呼んだ。その次の日は「飴玉」で、そのまた次の日は「アロエ」、一か月後には「駅前」になって、今年の僕の誕生日には「プレゼント」という名前を付けた。そして、つい昨日までこの猫の名前は「唯一(ゆいいつ)」だった。

 

その日の午後、僕はひとりで街へ出た。夕顔の餌をいつのまにか切らしていたのだ。バスを乗り継いで街のはずれの店を訪れると、黄ばんだエプロンをした老人の店員から「猫の名前の」と声をかけられる。

 

はじめてこの店を訪れた時、日替わりの名前を猫に与えていることを話すと、彼はそれにいたく興味を示し、店に来るたび新しい名前を尋ねてくるようになった。記憶力がいいのか、彼は僕でさえ忘れてしまっていたような名前をいくつも憶えている。

 

その日も、彼はまるで昔話を楽しむかのように、「サスペンダー」という名前が気に入っていたことを話して笑った。紳士のようないでたちの猫を想像して可笑しいのだという。

 

僕はいつの間にか、新作の猫の名前を彼に届けるために、その店へ通うようになってしまっていた。

 

けれど、そんな彼からは、僕自身の名前を尋ねられたことは一度もなかった。僕の年齢も、僕がどうやってこの店まで来ているのかも、知らないだろう。もはや名前を尋ねたことがあったかどうかさえも、忘れてしまっているのかもしれない。

 

いつまで経っても、彼にとって僕は「猫の名前の人」のままだ。今日こそは名前を名乗ろう、もう少し自分のことを伝えようと思っているうちに、気が付けば僕は店を後にしている。誰かに自分のことをわかってもらうとき、人はどれくらい長い時間をかけるべきなんだろう。

 

家に帰ると、夕顔は朝とまったく同じ場所に、まったく同じ姿勢で眠っていた。僕もまた同じように、「夕顔」とその猫の名前を呼んでみる。

 

夕顔は少し遅れたのち、申し訳程度に体を起こした。その動きにあわせて、架かっていた窓のカーテンが揺れる。隙間から差し込んだ夕陽のひかりがまぶしくて、僕は思わずまぶたを閉じた。

 

静かに流れる夕暮れの時間。赤色に満たされていく部屋の中で、僕はぼんやりと昔のことを思い出したりする。昔の記憶を掘り起こすとき、長い時間はかからない。

 

去年の顔馴染みは、僕の本をもう読み終えただろうか。あの日新作として売り出されたばかりだった本は、今では中古書店の書架の片隅に寂しく並べられている。それくらいに、時が経った。

 

いつかの顔馴染みは、今ではもう他人になったのかもしれない。

 

昨日まで「唯一」だった「夕顔」は明日「夕暮れ」になる。

 

 

特別賞

『鬼の島』笛地静恵

 

東京湾を桃が流れてきた。ガスタンクほどの直径があった。それからだ。すべてが変わってしまった。あれは、何の予兆だったのか。あたふたしている間に、本を返し忘れた。つい。うっかりした。返さなければならない。

 

ザックに本を入れた。

 

電車に飛び乗った。途中でとまった。動かない。アナウンスが流れる。この先で事故があったらしい。ようやく動き出したが、前に車両がつかえている。

 

次の駅で、運転終了ということになった。大事故らしい。バスの代替輸送になる。乗客が長い列を作っている。いつまで待っても、次がこない。タクシー乗り場にしても、さらに長蛇の列である。

 

仕方がない。昼どきである。駅前の食堂に入った。人肉定食にした。となりの席で、男ふたりが相談している。これから、どうするか。

 

「よかったら、俺の車で、おくってやるけど」

 

黒いグラサンをかけた顔の青い鬼が、声をかけてきた。金の交渉がはじまった。かなり高い。足元を見ている。しかし、三鬼で割れば、そうでもない。自分も、相乗りすることにした。話がまとまった。

 

青鬼の車で出発した。途中まではよかった。しかし、道路が渋滞している。県境の橋を越えたあたりから、ぴくりとも動かない。

 

なにが起こっているのか。携帯などは、とうにつながらなかった。国道を歩くしかない。あとの二鬼は、もう少し待つという。車の中で将棋を始めている。辛抱強いことだ。

 

地下鉄の駅があった。幸いなことに運転していた。行けるところまで行った。これも止まった。

 

地上に出た。黒い煙がたちのぼっている。俺の行く方から、大勢の鬼が逃げてくる。片方の角が折れている者もいた。重症だった。

 

怪獣が出現したという。巨大な猿だった。またか。この間は、巨大な犬だった。

大猿は、スカイツリーによじ登っているそうだ。口から怪光線を放つ。ビルが爆発しているという。地下鉄は運転を中断している。退路を断たれた形だ。進むしかない。

 

上空を軍隊のジェット戦闘機が通過していく。機体の下部から雉にロケット弾を発射した。俺は興奮していた。爆発の衝撃波で地面に転がされた。頭を打った。

 

目が覚めたときには、夜になっていた。角が曲がっている。頭痛がする。とんだことになってしまった。ザックは、まだ背負ったままだ。本も入っている。中身を盗られてはいない。

 

帰宅困難者のための避難所ができていた。この国は、どうなってしまうのだろうか。何もわからない。うわさでは、俺の住んでいた都市は、大きな雉に占領されているらしい。その翼の巻き起こす強風で、家々が吹き飛ばされた。

 

俺は義勇軍に志願した。軍隊とともに行動することが、一番、安全に思えた。とりあえず水と食料があったからだ。しかし、情報が集中するはずの軍隊にいても、いま、何が起こっているのかは、ほんとうにはわからないのだ。流言飛語のたまり場だった。

 

空気は、怪獣のからだから発する、放射嚢に汚染されているらしい。不安になるが、どうしようもない。呼吸はしなければならない。戦闘は長引いているようだった。

 

ようやく戦車部隊が到着した。アスファルトの道路を、ざぐりざぐりと削っている。歓声が起こった。砲身が回転した。遥か遠くに狙いを定めた。ビル街の影になって、怪獣犬の姿は見えなかった。

 

砲撃が開始された。車体が地面に沈んだ。轟音のあまり、その日は、鼓膜がしびれていた。だれとも会話にならない。攻撃が効果を上げたのかどうかも、さっぱりわからなかった。

 

塹壕の中で、本を広げた。一言一句が心にしみた。この本を返さなければならない。それだけが、いきがいだった。約束は守る。約束を実行しない国家があったから、人類の文明は、滅亡した。同じわだちを踏みたくない。

 

俺は、いまが、いつかも、わからなくなっている。月日ばかりではない。時刻さえも判然としない。空は、いつも灰色の雲に覆われている。頭も、同じようにぼんやりと曇っている。あまり働いていない。考えられるのは、自分が、まだ本を返していないこと。その一事のみだ。

 

国連軍が、加勢に来た。今は、中国語を話す赤い鬼の部隊と、行動をともにしている。怪獣たちの偵察に出ている。双眼鏡を目に当てた。犬と猿と雉が桃を食い終わった。種が割れた。