檸檬がドカン、猫の耳をパチン…拗らせ文豪・梶井基次郎の魅力

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では、梶井氏の友人からの評判はどうだったのか。学生時代の友人であり小説家である中谷孝雄氏の著書『梶井基次郎』には、こんな逸話が残されている。

 

 

男3人で酒をあおり、へべれけに酔っ払った梶井は「俺に童貞を捨てさせろ」と怒鳴りながら、祇園の石段下で大の字に寝て動かない。そこで近くの遊廓へ彼を初めて連れて行ったのである。それ以来梶井は、時々その夜のことを呪うように「俺は純粋なものが分らなくなった」とか「堕落してしまった」とか言うが、そんな言葉に私は全く取合わなかった。

 

童貞を捨てさせろと言っておいて、いざ奪われるとあーだこーだ言ってしまう様子には、まるで男っ気が感じられない。しかし、この豊かな感受性こそ、作品制作に必要不可欠なものだったのだろう。

 

また、梶井氏と同じ下宿に住んでいた詩人の三好達治も、著書「梶井基次郎」の中でこう語っている。

 

 

ある晩彼が襖越しに私を呼んだ。「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだろう…」そう言って、ガラスのコップを電灯に透して見せた。葡萄酒はコップの七分目ばかりを満して、なるほど鮮明で美しかった。しかし、それはつい今しがた彼がむせんで吐いたばかりの喀血だった。彼にはそんな大胆な嫌やがらせをして人をからかってみる、野放図と茶目っ気の入り混じった何かがあった。

 

自分の血を葡萄酒に見立てて、それを面白いと思って友人に見せている点に異常性を感じてしまう。それにこれ、『檸檬』のパロディのようにも見えるのに、実話であるというのだから笑えてくる。

 

猫への愛着もなんだか怖い

 

彼のもう一つの作品『愛撫』では、梶井氏の猫への異常な愛情が語られている。

 

 

私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやって見たくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか?

 

 

この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。――それは、猫の爪をみんな切ってしまうのである。

 

彼は猫を好きなあまり、空想が止まらなくなってしまったようだが、ここに楽しい内容は含まれていない。猫を苦しめる残酷な空想をしてしまう点に、梶井氏の拗らせっぷりを感じる。さらに、猫の耳を実際に噛み、その悲鳴を木管楽器に見立てるという、ブラックユーモアたっぷりの描写もある。

 

それでも、猫に対する愛情は本物で、それは「猫の前足を自分のまぶたに当て、疲れた眼球を癒している」という描写からしっかりと伝わってくる。

 

拗らせ×梶井基次郎 

 

拗らせは、周りの人から共感されないこともある。その人自身の内面世界で、その人にしかわからないルールや価値観で繰り広げられるからだ(『檸檬』など正にそうだ)。しかし、梶井氏の場合はユーモアに昇華されているため、第三者も楽しく読めるのではないか。また、彼のセンシティブな心や生い立ちも加わり、人によっては共感したり、救われたりすることもあるのだろう。

 

梶井基次郎の作品には中毒性がある。私たち読者は、彼の拗らせようにまんまと振り回されてしまうのだ。人間の残忍な自意識や妄想がユーモアたっぷりに描かれているからこそ 、何度でも読み返したくなる。

 

そんな彼の拗らせようが、今日もまたなお愛おしい。(文・悠木みかん)

 

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