陸上界伝説の男「溝口和洋」をご存じだろうか? 槍投げの日本記録保持者でありながら、何とも型破りな男であり、彼を語るエピソードには事欠かない。例えば……
- ナンパした女を朝まで抱いた後に、日本選手権に出場し優勝
- 気に入らない記者を本気で追い回してヘッドロックを喰らわす
- アフロパーマで試合に出場
- 当時の世界新記録を出す(その後、疑惑が残る再計測により幻に)
- 陸上・投てき界で初めて、全国テレビCMに出演
- ハンマー投げの五輪金メダリスト・室伏広治の素質を見抜き育成
実績や人気、パンチのある人間性や逸話など、全てが規格外の男であり、陸上界全体に与えた影響も計り知れない。そんな彼の伝説をつづったのが、ノンフィクション作品『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』だ。
この本は、『日本の路地を旅する』で知られる、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作家の上原善広が、18年にもおよび取材を続けた一作である。溝口がどのようなきっかけでやり投げをはじめ、トレーニングをし、世界のトップクラスまで登りつめたのか、ノンフィクション作品では異例の、溝口の一人称で語られていく。
古武道と溝口式トレーニングの共通点
さて、私事であるのだが、私は古武道を4年間やっている。古武道とは、日本古来の身体操作を、型を通して学ぶものである。最先端のスポーツ科学からも注目され、その動きはスポーツや音楽、介護の分野でも応用されている。元プロ野球選手の桑田真澄が取り入れていたことでも有名だ。
実は古武道の技術の根底には、独自の考え方がある。本書を読み進めるうちに、その考え方が、溝口和洋のスポーツ理論といくつも共通していることに気付いた。古武道では、常識的なスポーツの動きをとことん疑う。例えば素早い動きをするとき、一般のスポーツでは腰を良いポジションに据え、瞬発的に強く蹴る動きがいいとされる。
だが古武道では、腰の力をできるだけ抜き、フッと倒れる力を利用して移動する。普通の運動ではしない動きだが、一瞬で距離を詰めることができ、相手が気づいた時には拳や剣が入っているのだ。目の前で見ると、相手がワープしてきたような錯覚に陥る。溝口の投法も、従来の動きやトレーニングを全て疑うことから生まれた。
やり投げのために常識を壊していく
例えば、彼は競技中に「リラックス」するなという。溝口いわく、真のリラックスとは、「力は入っているのだが、自分では意識していない状態」のことを指す。
ロッククライミングをしている人は、指先がぐっと曲がったまま壁にぶら下がっているが、本人はそれを意識していない。しかし、実際には力が入っていないと滑落してしまう。つまり、意識せずに力が入っている状態を、溝口は意図的に作り上げている。
また、一般的に背筋を真っすぐ伸ばすことは、力の伝達効率がいいため、良い姿勢とされる。だが溝口は助走スピードを上げるため、背中を前かがみにして猫背気味で走る。これも常識外れと言える。
やり投げのスパイクは、左右同じ型を履くのが常識だった。だが溝口は、右足をくるぶしが出る型、左足は足首まで覆うハイカットの型のスパイクを履いていた。 これは、投げる瞬間に一番衝撃がかかる左足首を安定させるためだ。この左右非対称のスパイクは「ミゾグチ」と呼ばれるようになり、現在では多くのやり投げ選手が履くようになった。
これらは彼の取り組みの一端にすぎない。溝口は常識を一つひとつ疑い、やり投げに最適な動作を再構築していったのだ。