すべての女性に自由と平等を ベアテ・シロタが日本国憲法に刻んだもの

米ミルズ大学に通っていたころのベアテ・シロタさん。

 

コロナ禍で非正規雇用の大半を占めている女性は、一気に失業を余儀なくされた。DV被害は8万2643件(2020年・警察庁発表)と過去最高を記録し、女性の自殺者も増加している。賃金格差や政界においての発言権の低さもいまだに目立つ。

 

日本のジェンダーギャップ指数は120/156位(世界経済フォーラム2021)だ。常に下位1/4から脱したことはなく、G7では最下位である。歪なパワーバランスを歪に支えていた社会は、今回のコロナのように、ひとつの綻びであっという間に崩れてしまう。そしてその皺寄せがいくのは、まぎれもなく社会的弱者である。

 

そんなこの国で、女性の権利向上のために尽力し、革命的な日本国憲法24条を生み出したのが、ベアテ・シロタ・ゴードン(1923年~2012年)だ。その半生と功績を紹介したい。

 

刻まれていった日本の男女格差の惨状

5歳だったころのベアテさん(手前の少女)。

 

ベアテはオーストリアのウィーンにて、天才ピアニストのレオ・シロタの娘として生を受ける。レオは日本での演奏旅行に家族を同行させ、ベアテは5歳にして初めて日本の土を踏む。

 

短期的だった滞在は、レオの演奏会が好評になるにつれて延びていき、いつの間にかレオは東京音楽学校(現 東京藝術大学)で教鞭をふるうように。ユダヤ人である彼は、ヒトラーの台頭で弾圧が厳しくなるヨーロッパから離れる決断をしたのだ。そのため、娘ベアテも期せずして10年間日本で暮らすことになった。

 

語学の才能にベアテはたけていた。家族のなかで唯一日本語を扱える貴重な存在であり、早くも通訳のように両親と日本人の間を繋いでいた。

 

幼くして来日したベアテは、日本の男女の関係性について次第に違和感を覚えていく。快活に話す両親に対し、相手の日本人夫婦は夫ばかりが話し、妻は控えて話さない。お祝いの席でも妻や娘は台所でいそいそと働き、夫や息子は出てきた料理を食べるだけ。

 

また日本では大恐慌のとき、娘たちが僅かな金で遊郭に売られていく惨状や、当時のヨーロッパが10年以上前に獲得した女性の参政権が未だないことを、母や家庭教師から聞かされた。妻と愛人が同居している家の話や、夫が愛人の子どもを勝手に養子にして連れ帰った話など、信じがたい話も聞いた。

 

同い年の娘たちが、母と同年代の女性たちが、男性とははっきり区別されて生きている現状が、実感とともにベアテの記憶に刻まれていった。

 

憲法草案の執筆メンバーに

GHQの仲間と一緒に。

 

大学進学をアメリカに決めたベアテと、日本に残る決断をした両親は、太平洋戦争勃発のため離れ離れになってしまう。もちろん手紙も届かず、電話もできない。

 

終戦後の1945年12月、ベアテは留学先のアメリカから2度目の来日をした。寒空のなか、ボロボロの東京で、ベアテは両親の所在もそもそも存命なのかもわからなかった(当時、日本にいた外国人は軽井沢に集められ、両親はそこで暮らしていた。偶然にも父レオと連絡がつき、家族は無事に再会を果たす)。

 

一般人が日本へ渡航することが禁じられていた当時、なぜベアテが日本へ戻って来られたのか。それは彼女がGHQの民政局員として来日したからである。当時、日本語が堪能な人材は大変貴重でその語学力を買われ、見事一般から民政局への切符を掴んだのであった。

 

ベアテさんのGHQのID。

 

ベアテは当時を振り返り「1946年2月4日から12日までの9日間は、私の生涯で最も密度の濃い時間だったかもしれない」と語る。

 

1946年2月4日、いつもと変わらず出勤したベアテは異様な雰囲気を察知する。民政局長が酷く緊張しているのだ。集合したメンバーに対し、彼は「今日は憲法会議のために集まってもらった。これから一週間、民政局は、憲法草案を書く作業をすることになる」と告げた。

 

当時、GHQ最高司令官のマッカーサー元帥は焦っていた。1946年2月1日に毎日新聞がスクープした憲法草案が、大日本帝国憲法と大差ない内容であったからだ。そこで、長らく封建制度のもとにあった日本に一から民主主義とは何かを考えさせ、逐一交渉をするよりも、GHQ側で憲法草案を作成し、指針として示すほうが得策だと考えたのだ。

 

だがそのためには、2月12日に予定されている日本政府との憲法草案についての会合に間に合わせねばならない。事態は急を要していた。