本当に正しいことは何か?を訴えたかった。
―キャラクターで言うと、主人公のユウキみたいな普通の青年の対比として、「タケシ」を義手の設定にしたのはなぜですか。なんで義手なんだろうってすごく気になりました。
良い質問ですね。タケシっていう人間には実はモデルがいて。一人は同い年の県会議員。もう一人は仙台の経済界で活躍しているヤツなんだけど、彼らはタケシのように腕がないわけじゃないんだけど、欠損がある。身体だったり、心だったり。でもそれをバネにしている。だからキモチワルイくらい真っ直ぐなんですよ。
ちょっとイタイじゃないですか。ああいうヤツ、普通の世界にいたら。実際浮いちゃってたんだけど。僕が短い人生の中で、そういうやつが実際にいるって知ってしまったんです、体験として。
ただ、周りにそういう(まっすぐな)人がいない人達からしたら、彼の話をしても「へえ」なんだよね。こういう存在がいるんじゃないかって思わせるには、小説として工夫が必要で。で、仕掛けとして、手がない、と。そういう部分でバランスとれるかなと。
―義手という設定には、そういった背景があったのですね……。
ああいった真っ直ぐなヤツがなんで必要かっていうと、マルチはうさんくさいじゃないですか。でも、実際何がうさんくさいか分からない。システムや商品は意外とまとも。やってるヤツも社会のため、人助けのために、って言っていたり。実際助けてるっぽいし。
で、だんだん、言ってしまえばタケシみたいな真っ直ぐなものに近づいていく。でもマルチはなんだかキモチワルイ。「それ(真っ直ぐなものとうさんくさいもの)を分かつものは何なのか」を書きたかったんです。
―今のお話を聞いて作品の読後感としっくりきました。マルチってキレイ事と相性がいいですよね。「夢を叶える」とか「仲間と好きなことをする」とか。それだけみると他の業界と一緒というか。
そう。結局、マルチについて書いているんだけどヨコ展開できるというか。例えばAV業界にも似た構造があって、エクスキューズの仕方が重なるところがある。何をもって正とするかっていうとき、これ(が正しい)っていうものが言えないんですよね。
にも関わらず、今の日本にはなんか正しいっぽいものがあって。そこに向かっていくのが良いみたいな(風潮がある)。
でもそれは本当に正しいのか。そこまで言いたかったんです。ライスワークとライフワークどっちがいいかなんて答え出ないし。信じたのがマルチだったら、周りの穿った目があるからこそ信じきれる。「何が正しいんだよ」という点が今回の主旋律ですね。
ハッピー?バッド?色々な見方があるラストシーン
―マルチって入りやすいんですかね。ユウキみたいに、商品に疑問を持ちながらも承認欲求を満たしたい、みたいな思いでマルチをやっている人がいることが新鮮でした。でもマルチじゃなくても満たせると思うんです。どうしてマルチの道に行ってしまったんでしょうね。
マルチは敷居が低い。「誰でもありうるよね」っていうのをうまく書きたかったんです。特殊なやつが特殊な世界に入っていくってのは、突き放している感じがして。普通っぽい人が特殊な世界にポロッと入っちゃう。そこを描けたときに、書物として力を持つな、と思ったんです。
広く読まれたいと思って創る身としては、一部の人だけじゃなくてなるべく多くのひとに読まれる工夫が必要ですからね。
―ラストシーンは裏切られましたよ。
ハッピーエンドだったでしょ?
―「ハッピー」ですか?。
ハッピーでしょう。ユウキ、すごい成長してたじゃない。あれは、僕としては必ずしもバッドエンドではないですね。
―確かに『狭小~』よりは救われてる感じ、しました。
救われてる感じでしたでしょ。フィンチャー(映画監督のデヴィット・フィンチャー)みたいなね。(取材・文 ささ山もも子)
※次回へ続く