東北の人とともに、町の復興を見届けたい。フォトジャーナリスト安田菜津紀さん

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フォトジャーナリスト・安田菜津紀さん。カンボジアで貧困に苦しむ子どもたちやアフリカにいるエイズ孤児たちの取材など、国内外で活動を行う若手写真家だ。

 

岩手県の陸前高田市に住んでいた安田さんの夫のご両親は、2011年に発生した東日本大震災で被災された。家族が暮らしていた縁もあり、安田さんは震災直後から陸前高田での取材を始め、今も現地の人たちを撮り続けている。

 

2月には、陸前高田で漁師をしている菅野修一さんと孫の修生くんを追った写真絵本『それでも、海へ 陸前高田に生きる』を刊行。

 

 

4月22日(金)〜5月2日(月)まで、菅野さんを始め陸前高田で出会った人たちを写した写真展「この街で、これからも 陸前高田に生きる」が新宿の「オリンパスプラザ東京」にて開催された。

 

安田さんは29日(金)に、写真展のメインビジュアルのモデルになった佐藤あかりちゃんと、父親の佐藤一男さんと共にギャラリートークを行った。

 

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多くの命を助けた「津波てんでんこ」という教え

 

2011年3月11日 午後2時46分。地震が発生した時、一男さんは海の上にいた。

 

「港を出てすぐのタイミングでした。船を走らせても分かるくらいの揺れが船に伝わる。見渡すと、あちこちで土砂崩れが始まっていました。

 

船を丘へ戻し、従業員たちに帰るよう指示して自分も家に戻りました。家には妻と1才半の息子がおり、指示を出してバラバラに避難しながら難を逃れたんです」

 

なぜバラバラに避難したのか? そこには「津波てんでんこ」という教えがあった。地震の際、それぞれが自分の命を守るために一人で逃げろという意味だ。陸前高田には、この教えが脈々と残されていると安田さんは話した。

 

「普段から家族同士で教訓を共有できているからこそ、それぞれが自力で逃げているはず。『津波てんでんこ』は、自分も逃げようという信頼のもとに成り立つ言葉なのだと思います」

 

一方、当時小学1年生だったあかりちゃんは、地震が発生したときは米崎小学校で授業を受けていた。

 

「地震が収まるまで、机の中に入っていました。校庭が地割れしていて、泣き出す友達もいました。ほとんどの子たちは親が迎えに来ましたが、そうじゃない子は先生と一緒に高台の公民館へ避難しました」

 

2万4246人が暮らす陸前高田市は、行方不明者を含む1757人が震災で犠牲となった(※)。陸前高田にあるほとんどの小中学校の校庭に、仮設住宅が建てられた。佐藤さん親子は、米崎小学校にある仮設住宅に今も暮らしている。

 

※陸前高田市の被害状況

 

地震に備えなくなることが、3.11の風化に繋がる

 

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左から安田さん、あかりちゃん、一男さん。

 

大きな地震が起きる度、災害に備えなければという思いが湧く。しかし時間が経つにつれ、その気持ちは薄れてしまいがちだ。日常の中に、身近な備えをどうやったら盛り込めるのか。「目の届くところに災害に備えたものを置いてほしい」と一男さんは訴える。

 

「ニュースで報道されなくなることではなく、各自が備えなくなることが3.11の風化だと思います。皆さんは、緊急持ち出し袋を持っていますか? 用意して、玄関の少し邪魔になるところにぶら下げて下さい。そして何よりも、家具の固定を最優先に行ってほしい。日本で一番多い災害は地震ですから」

 

揺れた時に家具の下敷きになりケガをした場合、持ち出し袋も持てず、ましてや避難所へも行けなくなってしまうのだ。

 

一方、この春から中学校に入学したあかりちゃんは、「親の判断には全て従わない方がいい」と話した。

 

その理由として、「私の友達は幼稚園に親と一緒に妹を迎えに行って、津波に流されて亡くなりました。親がもし下に行くと言っても、自分だけは高いところへ行くなどしてほしい。言うことを全部聞いていると不安になるから」と説明。それを聞いた一男さんは、「知らない間に(成長して)…」とあかりちゃんの発言に感心していた。

 

二人の話を受け、安田さんは印象に残った言葉として「津波による犠牲者が出たことで、『東日本大地震』で終わらず、『東日本大震災』となってしまった」という一男さんの言葉を挙げる。そして、

 

「陸前高田に来られて『頑張ってね、応援しています』という言葉を紡ぐ人はいるけれども、自分も備えます、ということになかなか繋がらない。自分自身や大切な人をどう守っていくのかを、今後みなさんとも考え続けていければと思っております」と、会場にいた多くの参加者に語った。

 

 

ギャラリートーク後、安田菜津紀さんにお話を伺った。


 

故郷に帰るような気持ちで、東北に通い続けたい

 

ー『それでも、海へ 陸前高田に生きる』を先日出版されました。写真集ではなく、写真絵本にされた理由をお伺いできますか。

 

小さい頃、母が月に300冊の絵本を読み聞かせてくれました。それは大人から子どもに感性を受け継ぐ時間であったと思います。大人と子どもが時間を共有できる絵本というかたちで、自分が取材で出会った人たちのことを伝えたいと思ったのがきっかけです。

 

 

ー菅野さんの孫である修正(しゅっぺ)くんが、漁師町で育った子だなと感じたエピソードはありますでしょうか。

 

しゅっぺなりに、震災で怖い思いを経験しています。でも心が折れかかっていたおじいちゃん(菅野さん)に対して、「じいちゃんが獲った魚がもう一回食べたい」と彼は言いました。

 

海の恵みをまた食べたいと言ったことに、生まれた時から自然に海と同じ空間を分かち合い、それがしゅっぺの感性そのものになっているんだと分かったことは印象に残っていますね。

 

 

ー陸前高田の人にとって、海はどういう存在だと思われますか。

 

一概には言えませんが、漁師町に生きてきた人たちにとっては、自然は人の命を奪っていくものだけれども、怖いだけではないということをよく聞きます。自分たちに恵みを与えてくれるものなんですね。

 

怖がるだけではなく畏怖の念を持ち、自然の力を認めた上で自分たちはどう生きていくかを考える。多くの人にとって、海は同じ時間をともに生きる対象なんだと思います。

 

 

ー東北との関わり方など、今後の取り組みを教えていただけますか。

 

写真絵本での出版は、これからもしていきたいです。自分の中では、震災から5年が経っても節目は感じていません。これからようやく商店が建って、町も変化していくと思います。それと同時に、人の変化も見続けたい。

 

写真を撮った子ども達が成人する時、この町はどうなっているのでしょうか。自然と自分が故郷に帰るような気持ちで、東北に通い続けようと思います。この5年で出会った人との縁を大切にしたいですね。

 

ー安田さん、ありがとうございました。

 

 

東北に甚大な被害を与えた津波。「人は海を恨むだろう」と安田さんは思ったという。しかし東北の人たちは、海とともに再び生きようとしていた。安田さんが撮りためてきたのは、そんな未来に目を向ける人びとの姿だった。

 

「安田さんと知り合って一番嬉しかったのは、ここには自然や美味しいものが沢山ある、特別なところに自分たちが生きていると気づけたことです」と一男さんは話していた。

 

『それでも、海へ 陸前高田に生きる』は、写真絵本といえども非常に臨場感のある写真にあふれている。安田さんが培った信頼関係のもとに撮れた作品だということが分かるだろう。震災から5年。東北の復興に向けた一つの答えを、この写真絵本が私たちに示してくれている。(取材・文 平賀たえ)

 

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