【後編】ノーベル賞に最も近い作家の一人、カズオ・イシグロ 新作『忘れられた巨人』の発売記念講演

Ishiguro_0205
左から柴田元幸さん、カズオ・イシグロさん、土屋政雄さん (C)Hayakawa Publishing Corporation

 

※前回の記事はこちら

 

世界的作家であるイシグロさんは、その作品が翻訳され、自国のみならず、文化も風習も違う国で読まれることも多い。そのことは、創作にどんな影響を与えているのだろうか。

 

第2部のゲストとして、英米文学研究者・翻訳家の柴田元幸さんと、『忘れられた巨人』の翻訳者である土屋政雄さんを迎え、イシグロさんは世界的作家である故の苦労やこだわりについて語り、さらに作家を目指す若者たちへもメッセージを送った。

 

 肩越しに覗き込むデンマーク人?

 

第2部の口火を切ったのは柴田さん。「小説を書くときに、自分の作品が色々な言語に翻訳されることは意識しますか?」と質問する。

 

イシグロさんは、自身が「作品が世界に流通し、読まれることを意識している世代の作家」に属していると話し、「何かを書くとき、登場人物やその舞台について、他国の翻訳家や読者に分かるのだろうか? うまく翻訳されないかもしれない、と以前は心配していました」と本音を明かす。

 

特に、洒落や韻を踏む箇所は、きちんと訳されるのか心配が大きいのだそう。翻訳される中で、文化の特徴や特色が失われてしまうのではないか、とも考えるという。

 

中でも、デンマーク人に読まれることを常に心配していたそうで、「着ている服のブランドや、ロンドンのどの地区に住んでいるかを描くことで、階級がある程度分かる。しかし、デンマークの翻訳家には困るかもしれない。書きながら、デンマーク人が肩越しに覗き込んでいる気がした」と独特の表現で、他国の人に作品を読まれる難しさを語った。

 

 

 妻から「全部ダメ、書き直しなさい」とバッサリ

 

イシグロさんの最新作『忘れられた巨人』を訳したのは、スタインベック、ヘミングウェイ、オンダーチェ、デイビッド・ミッチェル、など、錚々たる大作家たちの翻訳を手がけてきた土屋さん。

 

「イシグロさんの英語あるいは小説は、他の作者の作品と翻訳する上でどう違いますか?」という柴田さんの質問に、「本の中身は完全にお任せで、私はただそれを安心して翻訳していくだけ。そういう安心感があります。なかなか全ての作家にそうは言えませんよ」とべた褒めだった。

 

さらに土屋さんは、『忘れられた巨人』について、それまでの作品と明らかな違いがあったと指摘する。それは、ひとつのセンテンスに、動詞が二つあることが多かったというもの。「恐らく意図的だと思うのですが、いかがですか?」という質問を受け、イシグロさんは「計算していませんでした(笑)」と笑顔で否定した。

 

そもそもイシグロさんが『忘れられた巨人』を書き始めたのは、2004年頃だったそう。数十ページ分を書き上げて妻に見せたところ、「全部ダメ、書き直しなさい」とバッサリ切り捨てられた。なぜそう言われたか考えると、会話の中の言葉がバカバカしい英語になっていたのだという。

 

それを受けて、数年後に再び書き出した際は、ThatやWhichやWhoなど、通常の英語で使わないといけないものを捨てていき、結果的に簡素化された文体になった。動詞が増えたのはそのせいでは、と振り返り、「小説を書くときは常にこういうチャレンジがあったんですよ」と人知れない苦労を吐露した。