【後編】ノーベル賞に最も近い作家の一人、カズオ・イシグロ 新作『忘れられた巨人』の発売記念講演

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左から柴田元幸さん、カズオ・イシグロさん、土屋政雄さん (C)Hayakawa Publishing Corporation

 

※前回の記事はこちら

 

世界的作家であるイシグロさんは、その作品が翻訳され、自国のみならず、文化も風習も違う国で読まれることも多い。そのことは、創作にどんな影響を与えているのだろうか。

 

第2部のゲストとして、英米文学研究者・翻訳家の柴田元幸さんと、『忘れられた巨人』の翻訳者である土屋政雄さんを迎え、イシグロさんは世界的作家である故の苦労やこだわりについて語り、さらに作家を目指す若者たちへもメッセージを送った。

 

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 肩越しに覗き込むデンマーク人?

 

第2部の口火を切ったのは柴田さん。「小説を書くときに、自分の作品が色々な言語に翻訳されることは意識しますか?」と質問する。

 

イシグロさんは、自身が「作品が世界に流通し、読まれることを意識している世代の作家」に属していると話し、「何かを書くとき、登場人物やその舞台について、他国の翻訳家や読者に分かるのだろうか? うまく翻訳されないかもしれない、と以前は心配していました」と本音を明かす。

 

特に、洒落や韻を踏む箇所は、きちんと訳されるのか心配が大きいのだそう。翻訳される中で、文化の特徴や特色が失われてしまうのではないか、とも考えるという。

 

中でも、デンマーク人に読まれることを常に心配していたそうで、「着ている服のブランドや、ロンドンのどの地区に住んでいるかを描くことで、階級がある程度分かる。しかし、デンマークの翻訳家には困るかもしれない。書きながら、デンマーク人が肩越しに覗き込んでいる気がした」と独特の表現で、他国の人に作品を読まれる難しさを語った。

 

 

 妻から「全部ダメ、書き直しなさい」とバッサリ

 

イシグロさんの最新作『忘れられた巨人』を訳したのは、スタインベック、ヘミングウェイ、オンダーチェ、デイビッド・ミッチェル、など、錚々たる大作家たちの翻訳を手がけてきた土屋さん。

 

「イシグロさんの英語あるいは小説は、他の作者の作品と翻訳する上でどう違いますか?」という柴田さんの質問に、「本の中身は完全にお任せで、私はただそれを安心して翻訳していくだけ。そういう安心感があります。なかなか全ての作家にそうは言えませんよ」とべた褒めだった。

 

さらに土屋さんは、『忘れられた巨人』について、それまでの作品と明らかな違いがあったと指摘する。それは、ひとつのセンテンスに、動詞が二つあることが多かったというもの。「恐らく意図的だと思うのですが、いかがですか?」という質問を受け、イシグロさんは「計算していませんでした(笑)」と笑顔で否定した。

 

そもそもイシグロさんが『忘れられた巨人』を書き始めたのは、2004年頃だったそう。数十ページ分を書き上げて妻に見せたところ、「全部ダメ、書き直しなさい」とバッサリ切り捨てられた。なぜそう言われたか考えると、会話の中の言葉がバカバカしい英語になっていたのだという。

 

それを受けて、数年後に再び書き出した際は、ThatやWhichやWhoなど、通常の英語で使わないといけないものを捨てていき、結果的に簡素化された文体になった。動詞が増えたのはそのせいでは、と振り返り、「小説を書くときは常にこういうチャレンジがあったんですよ」と人知れない苦労を吐露した。

 

 

作品は翻訳されると、その特色が損なわれるのか

 

「作品が世界に流通し、読まれることを意識している世代の作家」であるイシグロさんは、作品のテーマ設定に関しても、世界で読まれることを意識しているという。具体的には「ローカルではない、普遍的で大きなテーマを書かなければいけない。それは、地方紙で記事を書くのと、国際的な新聞に記事を書く違い」というもの。

 

例えば北欧の作家が小説を書き、それが英語に翻訳されれば、読者の層は広がっていく。しかし、その国の言語で書かれた小説こそ、育った環境や国の特色、文化が芳醇に描かれる。それ以外の言語に翻訳されると、損なわれてしまうのではないか、というのがイシグロさんの仮説だ。

 

「南米など、我々の世界とある程度切り離されて、独自の成長を遂げた文学の特色が失われないか心配している。ただ、普遍的なテーマを書こうとすると、辺境的にならないのでそれは良い点」だとイシグロさん。

 

国際的に成功した古典小説であっても、きっと著者は当時、外国で読まれることを想像していなかったと思う、と分析した上で、「物語の舞台となる場所で繰り広げられた話だからこそ、深いテーマがある。それが普遍的な人間のビジョンであるかどうかが問題」と話した。

 

続けて、「けれど、デンマーク人が肩越しに覗き込む心配は今もある」と先ほどの例を引き合いに出し、会場を笑わせた。

 

 

どの国も抱えている『忘れられた巨人』問題

 

そして話題は、「忘れられた巨人」を書こうと思ったきっかけについて。イシグロさんは、日本でも英国でもフランスでもアメリカでも、常に大きな問題を抱えていると指摘する。「その国の人々にとって、忘れたいと思っている大きな出来事がある。アメリカを例にすると、白人の警察官が黒人を銃で撃ち、人種差別に反対する暴動が起きるなど、毎週のように新たな事件が起きる」と説明。

 

そして、奴隷制度や南北戦争の時代から続く問題への向き合い方として、「アメリカで一部の人は、新たな対立を生むから、奴隷制度の歴史は教科書に書いてはいけないと言っている。しかし一方で、きちんと書いて問題にぶつからないと、人種差別はなくならないという人もいる」と、解決が難しい現状に言及した。

 

そんな問題について考えたことがきっかけで、イシグロさんは『忘れられた巨人』を執筆したという。今でも外国を訪れる場合、その国の『忘れられた巨人』は何かを考え、現地の人に聞いているのだそう。

 

もちろん、日本にもイギリスにも『忘れられた巨人』はある、とイシグロさん。それが何か、具体的に言及することは避けますが、と少しだけ寂しげに表情を曇らせたのが印象的だった。

 

 

作家を目指すなら、本当に書きたいと思っているのかが重要

 

そして来場者からの質問コーナーでは、「小説を書きたいと思っている人たちにアドバイスを」というリクエストが。イシグロさんは、「本当に書きたいと思っているのかが重要です」と回答する。

 

「アメリカやイギリスでは、作家やライターになりたい人はたくさんいますが、その多くは書くことができず、物語を考えるのに向いていません。そしてそう気付くまでに、驚くほど時間がかかるのです」

 

その原因として、多くの大学に「クリエイティブライティング」という、小説講座があることを指摘。作家を目指す学生はお金を払って受講する。本が売れない作家はその講師になる。つまり、産業になってしまったんです、とイシグロさん。

 

生徒の中にはいい作家になる人もいるが、夢を持った若者の多くは搾取され、若い大事な時期を無駄にしてしまう。そして30歳や35歳になったとき、間違ったことをしていたと気づくという。

 

そして、「本が出版できなくても、作家というステータスが手に入らなくても、それでも書きたいと思っているのか。それに『イエス』と答えられなければ、作家にはなれない」と、厳しくも温かいエールを送った。

 

 

作品を発表するたびに読者を驚かせてきた作家・カズオ・イシグロ。10年ぶりの来日講演は、非常に濃密な内容であった。またいつか、日本で話を聞ける機会を、ファンは心待ちにしていることだろう(取材・文 西川卓也)。