小説だからこそ機能する「記憶のフィルター」
ところで、イシグロさんが口にした、物語における「記憶」とは何か。同氏は何かを思い出そうとすると、記憶が静止画としてよみがえるのだという。例えば、家族みんなでテーブルを囲んでいる光景。誰がいて、何をしていたのかも思い出せるが、端の方は曖昧でぼやけている……そんな感覚を小説では描くことができるのだそう。
しかし映像は、その静止画が強制的に動き出し、現在に向かって進んでいく。そのため、「記憶のフィルター」が小説のように機能しないのだという。これらを踏まえ、イシグロさんは「だから私は脚本がうまくないんです。小説家としては腕がいいと思うのですが」と笑わせた。
この“記憶を描く作家ならではのニュアンス”は、『忘れられた巨人』にも込められているのだそう。「例えば古くからの友達と再会したとき、嬉しい一方で、何かが起きたからこそ疎遠になった、という問題があるはず。それを思い出すことがいいのか、忘れたままにした方がいいのか、誰もが無意識に自問自答していると思う。これは人生の中の重要な問題」とイシグロさん。
彼いわく、その問題は国家や社会でも同じことであり、「過去に起こった大きな事柄を記憶に残すか、忘れ去るかは常に悩まされていて、簡単な答えはない」と意味深に語った。新作の中で、どのように「記憶」が機能しているのか、注目したいところだ。
暗号として書かれ、解読するような小説は書きたくない
最後に杏さんは「自分の作品が深読みされ、解析されることについて作者はどう考えているのか」と尋ねる。状況によって変わります、と前置きした上で、イシグロさんは「作品が暗号として書かれ、それを解読するような小説は書きたくないし、読者だったら嫌い」と話す。
そして、自分が書きたいのは感情や気持ちだとし、「飢饉で何十人が死んだ、と単に情報を伝えるのではなく、飢えるとはどういうことか? 何を感じるか? どのように苦しんでいるか? を伝えたい。小説や映画や劇はささやかだが、そういう事実の裏にあるものを伝えられる」と物語の持つ特性を説明する。その上で、「『作者が伝えたいのはこれかも? でも、もっと複雑かもしれない』と、そこまで踏み込んで分析してもらえれば嬉しいですね」と笑顔で回答した。
そんな二人のやり取りを聞いていた市川さんは、今週末に『忘れられた巨人』の紹介コメントを書かなくてはいけないそうで、「今の二人の会話をもとに書くことにします」とちゃっかり便乗することを明かし、会場の笑いを誘った。(取材・文 西川卓也)
※後編に続く