”ぽいね”と言われ目眩がした【西荻窪】

 

東京以外の46道府県に『ひとつの行政に対して見ごたえのある街はひとつ』という不文律があるのに対して、東京はいくつもの顔をその狭い土地の中に作ってしまった、とてつもなく贅沢で羨ましくて憎たらしい場所だ。

 

例えば「眠らない街」といえば新宿、「若者の街」といえば渋谷、「古着の街」といえば高円寺という風に。

 

そしてこの西荻窪は喫茶店の街という認識に支えられている(らしい)。HanakoやPOPEYEが提案してくるシティボーイやガールたちは、その認識をそっくりそのまま了解して、それらの街を柔軟に謳歌する人びとのことを言うのだろう。そういうのもきっと才能なんだろうな。

 

私はそもそも歩いていること自体が好きなので、あまり街に目的や期待は持たない。何もかもが枯渇していた田舎に住んでいた時でさえよく散歩に出かけていた。

 

10歳のときに盲腸の手術をしてもらった、小高い丘の上の病院まで歩いて行き 、自分の町に広がる平野を眺めた記憶がある。平野といえば聞こえはいいが、言ってみれば田んぼだ。大きい建物がドラッグストアかパチンコ店しかなかったため端から期待のしようもなかった。

 

こういう話をすると「今はネット社会だからどこにいても発信できるよね」「どこにいても情報は手に入るよね」という有り難いお言葉を頂戴することもあるが、平々凡々・平均的で並みの人間は普通、発信なんかしない。また、手に入る情報よりも抑圧が大きい顔をして歩いているのが私の暮らしていた真の田舎だった。

 

外からの刺激には期待できない、でも何かを訴えるほどの能力に自分は恵まれていない、若しくはそこまで自己に盲目でもない、そもそも現状をつまらないと思うのは自分の内面が退屈そのものだからでは?というバッキバキのセオリーで丁寧に丁重に塗り固められたトラウマは、上京して5年経った今でも暗い影を落としている。

 

だから有名な喫茶店があろうとなかろうと、行こうが行きまいが、それらに見合った自分でないと何をしても楽しめるはずがない、『つーか向こうも私なんかお呼びじゃねーわ』と暫くはへそを曲げていたのだが、『食わず嫌いがすぎる!』と思い直し、それいゆ、こけし屋、ダンテ、どんぐり舎、POT、物豆奇、びあん香、甘いっ子など、この街有数の喫茶店には一通り行ってみることにした。

 

びあん香はアイスを薔薇の形にしてくれる

 

POTの卵トースト、これを食べたあと青梅街道沿いに新宿まで歩いた

 

正月の物豆奇

 

どの店も親切にしてくれた。

 

それいゆでは噂のイケメン店員がこっそりガトーショコラを頬張っているのを盗み見て、物豆奇では初めてカフェオレを美味しいと思った。大学でナンパした男の子と一緒に行ったどんぐり舎のカップの柄はとても綺麗で、お互いのものを小声で見比べもした。

 

しかし常連になることなく私と喫茶店の関係が終わってしまったのは、単純に私がそこでの時間に飢えていなかったからだろう。それはきっと資産が8億円あって、金にも糸目をつけなくていいような状況になっても変わらない。

 

ティーン向けの映画で重宝される「このときが永遠に続くと思ってた」的センチメンタルでひりひりとした都合の良い予感を覚えたことも、「ゆったりとした時間が流れるあたたかい空間」に納得できた試しもない。

 

現実に対する成功体験が少なすぎて、どこか他所にお邪魔してパーソナルな状態に落ち着ける余裕が私には欠けている。自分で書いていて「この人、生きてて楽しくないだろうな」と思うのだが、まじで楽しくはないです。

 

城みちる!?